今年、東京裁判の判決によってA級戦犯が処刑されてから65年目の年を迎えた。
だが、今日になっても、日本の戦後体制を決定した東京裁判について論争が果てしなく繰り広げられのは、その解釈をめぐって様々な未解決の問題が横たわっているからであろう。
例えば、平成20年に航空幕僚長を解任された田母神俊雄空将が先の戦争に対する政府見解(村山談話)に異論を唱え、大きな話題を呼んだように、東京裁判を肯定するか否かによって日本の戦争責任や戦後体制の捉え方が全く異なってくるのである。
こうした中で、これまであまり議論されてこなかった、もうひとつの未解決の問題が存在する。
それは、戦後の日本で真しやかに語られてきた「東京裁判をやらせたのはマッカーサーだ」という見方であり、マッカーサーは偽善的で無責任であるという負のイメージである。
その根拠は、マッカーサーは回想録で、当時の国際法では規定されていない「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい法律を後から制定して裁くことに対して厳しく批判しているにもかかわらず、自分に与えられた「減刑権」を行使せずにA級戦犯を処刑しまったことにあるが、その理由は、マッカーサーに与えられていた「減刑権」が形式的なものに過ぎず、実際には行使できなかったことにある。
マッカーサーは戦後、マニラで行われた山下大将・本間中将の戦犯裁判も、同じ理由で有罪判決を受け入れるしかなかったが、例えば、映画『私は貝になりたい』のモデル、加藤哲太郎元陸軍中尉のC級戦犯裁判のように政治裁判ではない裁判については、自分の権限を使って減刑している。
ところで、当時の日本の新聞は、マッカーサーがA級戦犯の2名を救うために、米連邦大審院(米連邦最高裁)に対して、死刑判決を再審するための訴願提出を許可したにもかかわらず、米連邦大審院が米政府の圧力で、その訴願を却下したことを正直に報じている。
では、なぜ当時の新聞は、そのことを正直に報じることができたのであろうか。
その理由は、マッカーサーが米政府の司法への干渉を批判するために、GHQに真相を暴露するよう命じたからだと思われる。
実は、GHQによる東京裁判批判は、これだけではない。
戦後の日本では占領期間中に、「マスコミによる東京裁判批判は全くできなかった」という見方が定説となっているが、当時の新聞、雑誌および書籍を調べると、占領当初から東京裁判に対する批判は、間接的な表現をとっていれば、あるいは直接的な表現であっても、検事側の法理論もバランスよく論じていれば、自由にできたのである。
さらに昭和25年10月に行われたトルーマン大統領とのウエーク島会談で、マッカーサーは東京裁判を批判する発言を行ったが、そのことを翌年の5月4日付の新聞で公表した新聞社の数は、全国54社のうち、実に43社(79.6%)にのぼっている。
では、なぜ全国の新聞は、「東京裁判は誤り」などのタイトルで、そのことを公表できたのだろうか。その原因として考えられるのは、マッカーサーがGHQに命じて全国の新聞にリークさせたことである。
マッカーサーが東京裁判を批判したのも、経済制裁で日本を戦争に追い込んだ戦勝国アメリカが日本にだけ戦争責任を押し付けて裁けば、日本人に怨恨感情が生まれるだけで、将来の戦争の防止にはなりえないことを悟っていたからだと思われる。
確かに、戦後の日本と米国には、マッカーサーや東京裁判について書かれた書物や映画はおびただしいが、それらに対して偏見を持つことなく、その真実を正しく伝えたものはあまりにも少ないし、中には作り話が定説となっているものさえある。
その理由は、わが国の歴史教科書を見ても分かるように、戦後、東京裁判の真相が封印されていることにあると思う。
著者は、東京裁判を批判したマッカーサーの真意を再検討することで、歴史のタブーであるマッカーサーに対する負のイメージにあえて挑戦し、新たな「マッカーサー像」を作り上げたと思っているが、いずれにせよ、著者の発見した歴史的資料からも分かるように、東京裁判には、いまだに解明されていない問題がまだまだ残されていることは確かであろう。
日本人が本書を通じて、東京裁判がもたらした誤った歴史認識から脱却して、失われた自信と誇りを取り戻すための一助となれば幸いである。