本書は、全ての日本人に読んでもらいたい。
いや、全ての日本人が、読むべき本であると、そう思った。
『戦争犯罪国はアメリカだった』という、親米派にはドッキリとするようなタイトルの本書は、発売されると瞬く間に一万、二万と刷られていった。
たちまち五万部近くを売り上げたのは、驚きだった。
本書は「歴史書」と言ってもいい。さっと読み流せるような本ではない。それにも関わらず多くの読者を惹きつけたのは、著者ヘンリー・ストークス氏の堂々たる立論があったからだ。
この度、本書が普及版として刊行されることになった。単行本として出版されてから四年半の時が流れたが、驚いたことに、本書は全く古くなっていない。
著者は、三島由紀夫と最も親しかった外国人ジャーナリストだ。令和二年十一月二十五日は、あの「市ヶ谷事件」から半世紀、ちょうど五十年という節目の日にあたる。そんな時に、単行本がより安価な形で、再び世に出ることは、不思議な思いを禁じ得ない。
著者は、東京裁判こそが戦争犯罪であると、喝破する。そして、その東京裁判が行われた場所こそが、なんと「市ヶ谷事件」の現場であった。
一般に、三島由紀夫は、「自衛隊の存在を違憲」と考え、憲法改正、さらには「国体」の護持を訴えて自決したとされている。しかし著者は、それ以上の意味を三島の自決につけ加えた。本書を虚心坦懐に読めば、著者の「仮説」が真相であったかのように思われてくる。
いわゆる「大航海時代」以降の世界は、白人列強が有色人種を「動物」のように使役し、搾取して栄華を極める時代だった。アジアでは、実質的に植民地となっていない国は、日本しかなかった。あとの全ての国は──列強のアジア争奪戦の緩衝地帯となっていたネパールとシャム(タイ)王国を例外として──白人列強の国々が宗主国となって植民地支配をされていた。
その中にあって日本は、生き残りを賭して戦っていた。
「レイプ・オブ・江戸」と、そう著者は「黒船来航」を位置づける。
新大陸を「発見」した「清教徒」たちは、既にその地に住んでいた「インディアン」や「インディオ」たちを大虐殺し、その代わりにアフリカから「黒人」を輸入して使役した。
異教徒は、キリストの信者となるか、虐殺するかという「明白な使命(マニフェスト・デスティニー)」を掲げ、西へ西へと西部を開拓し、西海岸(ウエスト・コースト)にたどり着いた。その先には、ハワイをはじめとする太平洋の島々、そしてアジアがあった。アジアの手前に、防波堤のように存在していたのが、日本列島だった。
ペリーの来航は、平和的ではなかった。いわゆる砲艦外交。「開国しなければ、江戸を火の海にする」と恫喝した。
「江戸政府」の右往左往に、市中には「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れた。ついに日本は明治維新を迎え、「鎖国」から「開国」へと舵を切った。
明治維新からの「富国強兵」政策は、侵略戦争の準備などではない。国家と民族の生存を賭した「生き残り戦略」だった。西欧列強の武力による植民地支配に打ち勝つには、日本も力をつけなくてはならなかった。
危機は、東や南からだけではなかった。
日本の西、支那大陸には、清国があった。アヘン戦争に敗れた清国は、欧州列強によって食い荒らされていた。その脅威を日本がまざまざと感じたのは、いわゆる「三国干渉」という白人帝国による侵略だった。日清戦争に勝利して日本が得たものを、ロシア、フランス、ドイツという白人国家が略奪した。三国を相手に戦えない日本は、「臥薪嘗胆」──耐え忍ぶしかなかった。
日本の北からは、白人帝国ロシアの南下が迫っていた。日露戦争は、朝鮮半島の北に位置する満洲が主な戦場だった。
日本が「白人帝国ロシア」との戦いに勝ったことは、全世界の有色人種の希望となった。有色人種の国家が、初めて白人国家を打ち負かしたのだ。強くなければ、やられてしまう。そういう時代背景の中で、日本は白人と唯一対峙できる国家として台頭してゆくのだった。
第一次世界大戦では、日本は戦勝国となった。わずかではあったが対ドイツ戦に日本は派兵していた。いよいよ白人と対等な立場に至った日本は、ベルサイユ講和会議で「人種差別撤廃」の提案を行った。多数決では、十一対五で日本の提案は可決されたが、アメリカのウィルソン大統領は、「このように重要な決議は、全会一致であるべきだ」と、「人種差別を撤廃しよう」という日本提案を葬り去ったのだ。
アジアの利権を得たいアメリカだったが、建国してから歴史の浅いアメリカは、欧州列強に比べ支那大陸の進出に出遅れていた。そこで、目障りなのが日本だった。
アメリカは、支那で台頭してきた蒋介石の中華民国政府と手を結び、「純朴な支那人を搾取する邪悪な日本人」というネガティブキャンペーンを始める。「対日移民法」によってアメリカの日本移民を縛り上げ、ついには禁油にまで及ぶ。当時の日本は、石油輸入の六割をアメリカに依存していた。それが断たれた。さらにアメリカは、国務長官のコーデル・ハルが「最後通牒」によって、日本が明治以来、支那や満洲で得てきた権益を全て放棄して完全に撤退することを求めてきた。
対米交渉では、日本はギリギリまで戦争の回避を模索していたが、この「ハル・ノート」によって、開戦を決断する。イギリスのチャーチル首相は、欧州戦へのアメリカの派兵を求めていたが、ルーズベルトは「派兵しない」ことを公約にしていた。そこで日本を開戦に持ち込もうと、絶対に日本が受け入れられない「和平提案」を突きつけたのだった。これが「ハル・ノート」だった。
日本は、追い詰められて開戦を余儀なくされた。それは「侵略戦争」などではなく、自衛戦争だった。それと同時に、アジアを植民地支配している白人列強と、「アジアの解放」の為に戦ったのだった。日本は、アジアを侵略したのでも、アジア人と戦ったのでもない。日本がアジアに進攻して戦ったのは、アジアを侵略していた宗主国の白人列強とだった。
今日の日本では、先の戦争は「太平洋戦争」と呼ばれている。しかし、日本で閣議決定された正式な戦争名は「大東亜戦争」だった。そこには白人列強からアジア諸国を解放するという意味が込められていた。
実際に、昭和十八(一九四三)年十一月五日から、大東亜会議が東京で開催された。世界史で初めての有色人国家によるサミット(首脳会議)だった。著者は講演がある度に、英語で次のように語っている。
「東條首相、満洲国の張景恵国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理であるワイワイタヤコーン殿下といった各国首脳が一堂に会し、ボースはインド仮政府代表としてオブザーバー参加をしました。
今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が『占領地の傀儡』を集めて国内向け宣伝のために行ったと唱えています。しかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本の魂を売る外国の傀儡というべきです。
会議では大東亜共同宣言が満場一致で採択されました。ボースは『この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章となることを願う』と訴えました。
ボースは、日本は『全世界の有色民族の希望の光だ』と宣言しました」
日本軍がアジアに進攻し、アジアを支配していた欧米の軍隊を駆逐した。これによって、アジア諸民族の中に独立の機運が高まり、実際にアジア諸国が次々と独立を果たしたのだ。
白人による有色人種の植民地支配という「世界秩序」を終焉に向かわせたのは、大東亜戦争であった。
しかし、マッカーサーが違法な「裁判所条例」によって開催した極東国際軍事法廷(東京裁判)は、日本を侵略国家として断罪し、東條英機陸軍大将をはじめ七人を、いわゆる「A級戦犯」として絞首刑に処した。
この東京裁判について、著者は厳しく批判する。著者の主張するところを、列挙してみよう。
・日本は東京裁判を受け入れたのではない。
・東京裁判は、違法裁判であり無効。被告は全員無罪。
・ウェッブ裁判長は、検察官だったし、国際裁判の裁判長をするだけの資格がない。
・東京裁判は、行政処分をする役所だった。
・「事後法」によって、戦争犯罪人を作り出した。
・捕虜の不当処刑は、国際法違反の戦争犯罪。
などといった観点だが、示唆に富む。
東京裁判の判事は、全員が戦勝国の出身だった。これでは正に「勝者の裁き」で、不当な「復讐裁判」だったと言えよう。そうした中にあっても、国際法の唯一の専門家であったインドのパル判事は、裁判の不当性を訴え、全ての被告の無罪を主張した。
東京裁判は占領下で行われた。目的は、アメリカなど連合国の戦勝国史観を宣伝することと、日本人に贖罪意識を植え付け、二度とアメリカに歯向かおうなどという気持ちを持たないように日本人を骨抜きにすることだった。日本国憲法は英文で書かれたが、まるで「属国条約」である。日本の宗主国はアメリカだという「証文」である。日本人は、その生命を「平和を愛する諸国民の正義」に委ねると宣言させた。自分の国を自分で守らずに、他国に守ってもらおうというのでは、独立主権国家ではない。
アメリカ軍に国の防衛を依存している限り、日本は永久に国家として自立できない。
著者は、三島由紀夫が五十年前に、東京裁判が行われたその場所で自決をして訴えたのは、その日本の独立の精神を復活させるためであったと論じている。
奇しくも先日、「戦後政治の総決算」を訴えた中曽根康弘大勲位が逝去された。
「憲法改正」を訴え、歴代首相の中で最長の在任期間を誇った安倍晋三首相も退陣した。
改めて本書を読むことで、敗戦によって失われてきた日本のあるべき姿を取り戻したいものである。その意味で、本書が普及版として刊行され、さらに多くの、否、日本の全ての国民に読んで頂ける一助となることは、著者にとっても至上の喜びとなることであろう。
令和二年十月十九日