今年は終戦から数えて、ちょうど七十年目の年になるが、大東亜戦争の終わりごろに、二十歳前後の若者たちが不利な戦局を挽回するために、飛行機に爆弾を積んで、フィリピンから敵機動部隊を目指して飛び立ったのは、終戦の十カ月前にあたる昭和十九年十月二十一日のことであった。
このときから、日本の若者たちは、自分の身体を肉弾に代えて、日本本土を攻撃してくるアメリカ軍に対して、死力をつくして戦ったが、今の若い人たちには、大東亜戦争とか神風特攻隊という言葉を耳にしても、「遠い昔にあった大きな事件」くらいにしか感じられないかもしれない。
そもそも、大東亜戦争とは昭和十六年十二月八日に、日本を戦争に追いこんだ西欧列強に対して、戦いを挑んだ戦争であったが、これは十三世紀中頃に、「モンゴル帝国」が西欧列強に与えた衝撃とは違ったものだったのである。
日本軍は、半年あまりで、十五世紀から始まった西欧列強による植民地支配を終わらせると、東南アジア各地に独立義勇軍を結成して、現地の青年たちに軍事訓練を行い、強い精神力を植えつけたからである。
また現地では将来の独立に備えて、行政の仕事を教えたりしたが、このようなことは、それまでのイギリスの統治時代にはなかったことから、原住民のマレー人と独立運動の支援に感謝するインド人を喜ばせた。
特に、マレー人の青年たちに対する教育と訓練は、日本の軍政で最大の遺産とされている。
だが、それまで優勢だった日本軍も、昭和十七年六月五日に行われた「ミッドウェイ海戦」に敗れると、アメリカ軍との太平洋上の戦いに、次々と敗れていった。
このときに、敵艦船に対して、爆弾を積んだ飛行機ごと体当たりを行ったのが「特別攻撃」と呼ばれるものであった。
以来、特別攻撃が終戦の日まで休むことなく続けられたのは、自分の生命にかえても、愛する祖国と家族を救うことができるのは自分だ、と信ずる若者たちがあとを断たなかったからである。
フランスの作家で、文化大臣と日本駐在フランス大使をつとめたアンドレ・マルローが、日本は特別攻撃隊の善戦も空しく、戦争に負けたかもしれないが、
「何ものにもかえ難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である」
と、ほめ讃えているように、これは他のどんな民族よりも勝った美点であったろう。
神風特攻隊の生みの親である大西瀧治郎中将が日本の敗北を覚悟して、多くの若者たちを神風特攻隊員に任命したのは、国家の危機に際して、一つしかない生命を捧げた若者たちの犠牲的精神を、後世の日本人が受け継いで、再び日本が国家の危機に直面しても日本を守るために、いつでも死ねる覚悟と勇気を持った者が現われてくることを期待してのことだった。
にもかかわらず、味方であるはずの日本人が、特攻は上官から命令され強制されて、やらされた最悪の戦法という誤った考え方で決めつけるのが戦後の日本の特徴なのである。
フランスの劇作家で、大正時代に日本駐在フランス大使をつとめたポール・クローデルが
「私がどうしても滅びてほしくない一つの民族がある。
それは日本人だ。
……彼らは貧しい。しかし、高貴である」
と述べているように、日本が世界から尊敬されるのは、お金をたくさん持っているからでもないし、モノ作りがうまいからでもない。
それは、日本の若者たちが国家の危機に際して、一つしかない生命を捧げるという世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊を生みだした国だからである。日本人は、そのことに対して、もっと大きな自信と誇りを持つべきなのである。
日本の未来をになう子供たちが戦後の日本人が失った愛国心≠考える上で、国家の危機に際して、当時の若者たちが何を考え、どう生きたかを、この本を読むことによって、学んでもらえればと思うしだいである。
平成二十七年五月二十七日(海軍記念日にて)
吉本貞昭
はじめに
第一章 特攻はなぜ生まれ、いかに戦ったのか
一 神風特別攻撃隊はこうして生まれた
──世界に例のない体当たり攻撃
二 神風特別攻撃隊はいかに戦ったのか
──日本が勝つ道はこれ以外にない
三 特攻の戦果は本当に少なかったのか
──アメリカ軍は沖縄上陸をあきらめようとしていた
第二章 若者たちはなぜ特攻を選んだのか
一 若者たちはこうして特攻に志願した
──笑顔で飛び立っていく若鷲たち
二 若者たちはなぜ特攻に志願したのか
──残された言葉が語りかけるもの
三 戦後の日本人はなぜ特攻を批判するのか
──特攻隊をめぐる数多くの誤解
第三章 外国人から見たカミカゼの真実
一 外国人はカミカゼをどのように見ているのか
──世界の人々から尊敬され続ける特攻隊
二 外国人はどのように特攻隊員の遺書と手紙を見ているのか
──隊員たちの清らかな心と武士道の精神
第四章 元特攻隊員、関係者、遺族たちの戦後
一 元特攻隊員の戦後
──戦友たちの真実を伝えたい
二 特攻隊員の関係者の戦後
──ホタルになって帰ってきた隊員
三 特攻隊員の遺族たちの戦後
──住む家すらなくなった「軍神の母」
おわりに
特攻隊戦没者の慰霊顕彰会・施設・資料館の一覧表
著者が本書を書こうとした動機は、戦後の日本人には 家族愛≠ニいうものはあっても、愛国心≠ニいうものをすっかりなくしてしまったように思うからである。
現在の日本人には、日本がアメリカと戦争をしたことも、アメリカ軍が日本を占領して、日本の社会制度を改革し、しかも帝国憲法とは全くちがう新しい憲法まで作って、日本人に無理やり押しつけ、七十年近くも、それを使わせられてきたことを知る者が少なくなってきている。
特に、現在の二十代以下の青年たちは学校で、そのことを教えられていないため、本当のことを知っている人が非常に少ないのが実情である。
著者は、二年前に出版した『日本とアジアの大東亜戦争』(ハート出版)という本の中で、日本が大東亜戦争を始めた理由を詳しく説明したので、その問題は省略し、ここでは日本が降伏するまでのいきさつについて述べたいと思う。
アメリカ軍が沖縄を占領すると、日本軍は日本の本土を守るために、約一万機の特攻機を用意して、日本に上陸してくるアメリカ軍との最後の決戦に備えていった。
その間、アメリカのトルーマン大統領は七月十七日から八月二日にかけて、イギリスのチャーチル首相やソ連のスターリンとともに、ドイツでポツダム会談を開いて、日本の降伏条件と対日処理(戦後の日本の問題を片付けること)を定めた「ポツダム宣言」を発表した。
ところが、日本がポツダム宣言を拒否すると、アメリカは八月六日に広島、九日には長崎に原爆を落とすが、これは一般市民の殺人を禁止した国際法に違反した行為であった。
一方、ソ連は昭和二十年二月に、アメリカやイギリスとヤルタ会談を開いて「ヤルタ秘密協定」(ソ連は、ドイツが降伏したあと、三カ月以内に日本との中立条約を破って戦争に参加するが、その代わりに日本の領土である南樺太、千島列島を手に入れることを決めた協定)を結んだ。
ソ連は五月四日に、ドイツが降伏すると、このヤルタ秘密協定にしたがって、八月八日に「日ソ中立条約」を破り、翌日から九月二日にかけて日本を攻撃してくるのである。
そこで、鈴木内閣は十四日に、御前会議を開いて、国体(天皇を中心とする国家体制)を守るという条件のもとで、ポツダム宣言を受け入れて降伏することにしたが、これに満足できない青年将校たちが反乱を起こして、アメリカ軍との最後の決戦をさけぶのである。
結局、日本政府は連合国に降伏し、そのあとにアメリカ軍が日本を占領して行った東京裁判や占領政策によって、日本人は、すっかり自分の国に対する誇りや自信を失ってしまうのである。
特に、戦後に生まれた日本人は、アメリカ占領軍が行った平和教育によって、大東亜戦争を始めた本当の理由も、大東亜戦争がアジアを解放する戦いであったことも、すべてふせられて、「日本がアジアを侵略した」という言葉だけを信じこまされているのである。
どこの国でも、自分の国の戦争の意義(物ごとが持っている値うち)を強調して書くのが当たり前なのだが、わが国の歴史教科書では自分たちの立場ではなく、敵国の立場で書いているように見える。このような歴史教育をやっている国は、世界でも日本だけしかないだろう。
特攻隊と言えば、飛行機による特攻が有名であるが、特攻隊の中には、水中特攻の人間魚雷「回天」、人間機雷「伏龍」、海上特攻の爆弾ボート「震洋」、「マルレ」があった。
当時の若者たちは、これらの特攻兵器に乗って敵艦隊に体当たりした。どれも命中すれば、敵に対して大きな損害を与えたが、その代わり自分も必ず死ななければならなかった。
こうした特攻隊の他に、陸軍には爆撃機が敵飛行場に強行着陸し、中から兵隊が飛び出して敵に斬り込むという空挺特攻隊(義烈空挺隊)があった。
また海軍には戦艦「大和」以下十隻が沖縄を目指して出撃した海上特別攻撃隊もあった。
大東亜戦争が終わり、平和がよみがえってから、すでに七十年の歳月が流れ、その傷あとはどこにもない。いまさら特攻隊員の遺書などと思うかもしれないが、今われわれが得ている平和は、特攻隊員をはじめとする英霊(戦争で死んだ人の霊に対する尊称)たちの生命と引きかえに得たものなのである。
大西瀧治郎中将は昭和二十年八月十六日の夜明けに、数千人の部下を特攻で死なせた責任をとって自決(ピストルや刀を 使って自殺すること)したが、その大西中将が最期に書いた遺書には、青年たちに対して、たとえ平和なときであっても、特攻精神を持ち続けることを願っている文章がある。
その意味は、戦前の青年たちが国家の危機に際して、一つしかない生命を捧げた犠牲的精神を、戦後の青年たちが受け継ぐことで、再び日本が国家の危機に直面しても、日本を守るために、いつでも死ねる覚悟と勇気を持った者が現われてくることを願ってのことだったと思う。
戦後の平和教育によって愛国心 というものをすっかり失くしてしまった青年たちが、それをもう一度取りもどすには、全国にある特攻隊戦没者の慰霊施設を訪ねたり、特攻隊の本を読んだりして、戦前の青年たちが国家の危機に際して、一つしかない生命を捧げた、その犠牲的精神を学ぶしかないと思うのである。
平成二十七年八月十五日(終戦記念日にて)
吉本貞昭