この本は実にバカバカしい本です。
なぜなら、日本国憲法九条の本だからです。日本国憲法九条は実にバカバカしい存在なのだから、丸ごと一冊かけて九条について語っている本が、バカバカしくないはずがないのです。つまりバカなことを書いている、バカな本なのです。
最初にお断りしておきますが、私がふざけているのではありません。ふざけているバカなのは日本国憲法の方です。ふざけた日本国憲法の中でも、最もふざけた第九条について語ろうというのですから、こちらがどんなにまじめな態度を取ろうとも、バカでふざけた本になるのは仕方がないのです。
では、日本国憲法の何がバカなのか。大事な点だけ六つあげます。
一、出生。そもそも、ダグラス・マッカーサーという外国人の落書きから生まれたこと。
二、条文。世にもおぞましい、汚らしい、法律に値しない文章であること。
三、剽窃。東京オリンピックのエンブレムで間に合っています。不戦条約のまんまパクリです。
四、解釈。九条だけで大学の授業を一年できるくらい、どうとでもとれます。
五、運用。こんなものが日本の最高法なので、困っています。
六、恥部。こんなものを日本の最高法として押し戴いてきたのは無かったことにしたいです。
出生がいかがわしく、条文が愚かで、しかもその条文も剽窃であり、解釈がデタラメで、運用が無茶苦茶で、日本の恥部だからです。
つまり、全部が問題なのです。存在そのものが問題と言っても間違いありません。六つの内どれか一つでも認めれば、日本はまともな国ではなくなってしまうという大問題点ばかりです。しかし残念ながら我が国は、こんなゲテモノを自分の国の最高の法律として押し戴いて、今に至ります。
五月三日は「ゴミの日」とは、よく言ったものです。ゴミですら嫌がるようなゲテモノを呪う日だという暗号でしょう。表向きは憲法記念日となっていますが。
しかし、それにしても、なぜ今頃、憲法九条の本なのか。私が聞きたいくらいです。巷で話題になっているから、仕方ありません。
もちろん、昨平成二六年に閣議決定した集団的自衛権の解釈変更と、それに伴う今年の安保法制国会の体たらくを見て、この本を書こうと決意しました。あまりにもグダグダなので。では、なぜグダグダになるのでしょうか。
日本国憲法、特に九条がグダグダなのだから、その解釈と運用がグダグダになるのは当然です。ところが、何かの間違いで日本国憲法を尊重しなければいけないのだから、話に矛盾が出るのは仕方ありません。具体例をあげましょう。
ある日の国会で、安倍晋三首相が「後方支援は戦闘行為ではありません」と答弁すると、民主党の岡田克也代表が「後方支援こそ戦闘行為ではないか」と追及する。これ、岡田代表の方が正しいのです。岡田代表が率いる民主党など、いつもは聞くに値しない愚かな質問をするか、たまにカメラに向かってプラカードを掲げるしか能がないくせに。
ここで言う「後方」を位置関係の事と勘違いしている人が多いのですが、違います。前方と後方の違いは任務です。前方は直接戦闘を行うこと、後方とは直接戦闘を支援することです。その中でも中心は、兵站(logistics)です。戦いにおいて、強い武器を持っている相手とそうではない相手、どちらを狙うか。当然、後者です。よって、後方任務は安全どころか、むしろ危険な任務です。また、後方で支援をしていることは、戦闘に参加しているのと同じです。戦っている兵士に武器や食料などを支援するのは、戦いに参加しているのと同じです。敵からすれば、後方を叩くのは自分を守るために必要なことです。
仮に、「後方支援は戦闘行為ではありません」と宣言したとして、誰が騙されるでしょうか。
日本国内でしか通用しないデタラメな論理で出来上がっている日本国憲法に矛盾が無いという前提で話をするから、政府の答弁に矛盾が出るのです。
よく、「敗戦後の日本は七〇年間、平和憲法の下で一度も戦争に参加しないで生きてきました」と言われます。では、在日米軍基地や思いやり予算は何なのか。一九五〇年の朝鮮戦争以降、ベトナム戦争やイラク戦争など、アメリカ合衆国の主な戦争で、在日米軍基地から多くの兵士が出撃しています。
日本はアメリカの同盟国であり、アメリカが戦った中国やベトナムから見れば敵国です。中立国ではありません。日本は戦争参加国なのです。
現在、集団的自衛権の行使が議論されています。日本国憲法(特に九条)を愛する護憲派は「憲法制定以来、一貫して行使が禁止されてきた集団的自衛権を行使するな」と主張し、改憲派は「行使する」と反論しています。実にバカバカしい。
集団的自衛権など、とっくに行使しています。基地提供や資金援助は、集団的自衛権の行使です。既に行使しているものを「行使するな」「行使する」と、やり合う空しさ。
どうして、こうなるのか。それは、日本国憲法がマトモな存在であるという思い込みです。日本国憲法など、日本国を一歩でも出れば、得体のしれないゲテモノにすぎません。その証拠に、憲法学の主流派の教授たちは、比較憲法学を嫌がります。あるいは、国際法学者との議論から逃げます。国際法では、「基地提供や資金援助は集団的自衛権の行使である」と教授全員が知っていますが(ただし、護憲派に親和的な教授は知っていても誤魔化します)、日本国憲法の教授方は本当に知らないか、知っていても無視するかです。「国際法ではそうかもしれないが、日本国憲法では違う」と平気で言い出します。
本書では、デタラメの根源である日本国憲法第九条を解説し、憲法学者がどのようなデタラメな議論を展開しているかを、お話しします。
今の不毛な集団的自衛権や憲法九条の議論ではなく、少しでもマトモな議論を多くの人に知ってもらいたいと思います。