(戦時中の「国民学校令施行規則」における)この教育目的も、そしてこの時期の「国史」教科書も、大東亜戦争敗戦後のほとんどの歴史学者、教育学者により「皇国史観の押し付け」「戦争に協力することを少年少女に洗脳する戦時教育」として全否定されてきた。
しかし、私たちが現在、偏見や先入観を捨ててこの「国史」を、純粋なテキストとして読むとき、硬直化した戦後の歴史解釈を越えて、いま私たちが見失ってしまった、歴史を「世界史」でも「日本史」でもなく、「国史」として読み直す視点に触れることができるはずだ。
さらに言えば、おそらく教科書編纂者の意図を越え、大東亜戦争の時代に、日本国が、明治以後の近代主義を超越した、もう一つの新たな「皇国」の理想に向けて飛翔しようとした歴史の息吹がこの本にはみなぎっている。それが決して猛々しい戦意高揚の文章ではなく、やまとことばのたおやかさと哀しさを通奏低音としているところに、大東亜戦争を神風特攻隊というある種「神話的」な戦法をもって挑んだ、わが国の悲劇的な精神が体現されているのかもしれない。
本書『初等科国史』は、まさに「神国日本」を貫く皇国史観に基づいている。そして、皇国史観とは一部の左派知識人が批判してきたような、蒙昧で狂信的な自国中心史観でもなければ大東亜戦争のイデオロギーでもない。その本質は「歴史を忘れ血を忘れた低俗なる功利主義」つまり「近代」そのものと果敢に戦おうとした思想的営為であった。
現代社会が、グローバリズムという新たな脅威を迎え、近代の行き着く果てに全世界的にナショナリズムが勃興し、近代以前の価値観が宗教原理主義として暴発し、特に東アジアにおいては、覇権主義大国の暴力が国際秩序を脅かしつつある。
そして令和の改元がなされた年に、大東亜戦争の最中という国家的危機に対応すべく生まれた本書が再びよみがえることに、私はある歴史的意義を感じる。「国史」の精神的復権と「古人」の声を聴くことの必要性を、時代が私たちに呼びかけているように感じざるを得ない。