本書の底本である『初等科国語』五〜八は、戦時中の小学校五年生、六年生用の国語の教科書ですが、当時の学制(学校制度)は現代のものとだいぶ異なります。この時代は義務教育と呼べるものは小学校までで、その小学校のことを「国民学校」と呼んでいました。そして「国民学校」の六年生を卒業すると、子たちは国民学校高等科に進学するか、中学校、高等女学校、男子青年学校、実業学校など、様々な進路を選択することができました。
このような次第ですから、教師は小学校六年生までに、その子に応じた進路を見極めなければなりません。
実はここが戦前戦中までの日本の教育と、戦後教育の最大の違いです。戦後の教育はいわばエレベーター式に単一の線路で小中高という進路が決まりますが、戦前戦中までは国民学校の卒業時までに、その子の適正に応じた進路をしっかりと教師が見極めなければならなかったのです。
このため戦前戦中までの教育では「系統学習」という手法が取られていました。これは「なぜそうなるのか」を児童にしっかりと考えさせることに重きを置いた教育です。これに対し戦後の教育は「問題解決型学習」です。「系統学習」と「問題解決型学習」の二つがどのように違うのかというと、たとえば「1192年に鎌倉幕府が開かれた」という史実に関する学習の場合、
○問題解決型学習
(問)鎌倉幕府は何年に開かれましたか?
(答)1192年《正解》
○系統学習
(問)なぜ頼朝は幕府を鎌倉に開いたのですか?
(答)・・・・。《正解がない》
といった違いになります。
「問題解決型学習」はクイズと同じで、あらかじめ定められた答えを覚える学習ですが、「系統学習」は事物の現象について、それがなぜ起こったのかを系統立てて学習するというものでした。ですから「系統学習」に正解はありません。むしろどうしてそうなったのかを考えることに重きが置かれていたのです。なぜそのような教育がなされていたのかの理由は明白です。小学校卒業時点までにその児童の進路を教師が見極めなければならなかったからです。
どうしてそうなるのか。なぜそうなったのか。その結果何が起きたのか。自分がその当事者なら、どのように決断をしたのか。その場合、結果はどのように変化したと考えられるか。そうしたことを系統として学ぶことは、単なる記憶力を試す詰め込み教育、問題解決型教育とくらべて、夢中になるほど楽しいものです。なぜなら人は知ることを楽しむことができる生き物だからです。
教育方法としての「系統学習」は、江戸時代、あるいはもっとはるかに古い時代から我が国において確立され、継続されてきたものです。けれどそのことによって日本人があまりに優秀な民族になっていることを忌避したGHQは、日本の教育の内容と制度をいちどきに改革することによって日本人の劣化を促そうとしました。結果、戦後的「問題解決型教育」で育った子供たちは、あらかじめ定まった答えを解答することだけを学び、自らものを考え未来を担い創造するという思考回路を持たないようになってしまったと言われています。
「系統学習」の前提となる基本ルールが「道徳的精神と愛の心」です。
国語は単に思想発表の道具ではありません。国語は国民的思考や感動の結晶体です。国民の思想や精神と不可分の関係にあるものなのです。そしてそれら思想や精神は、常に根幹に「愛」がなければならない、と当時の指導要綱は述べているのです。
実際、本書において紹介されている初等科国語五〜八を見れば、いずれも最初の第一章は歌から始まっています。詩も和歌も声に出して朗読朗詠するものです。その言葉には、とても美しい響きがあります。まさに国語教育が国民精神の根幹に「愛」を育もうとしていることが、この一点を持っても明らかです。
初等科国語「五」
初等科国語「五」は、大八洲の詩にはじまり、次いで日本武尊の妻であられた弟橘媛の入水、次いで木曽の御料林を通じて天武天皇、持統天皇の御代から続く伊勢神宮の式年遷宮と、式年遷宮に際しての織田信長による木曽のヒノキの献上の物語等が語られています。こうして神々への感謝と、緑の樹木を大切にする心が養われたわけです。
そして続けて当時の日本が戦時中であったことに鑑みて、戦地の父からの手紙、そしてマレー半島にあるスレンバンの日本人とインド人の混血の少女の悲しい母との別れとその後の活躍の物語、さらに支那の戦線の模様までが述べられたあと、ことばと文字の関係についてが語られています。そしてその中で「いくら美しい文字で文を書いても、うそいつわりの心持ちを書いたのでは、だれも感心して読まない」と語られます。「りっぱな心持ちが正しいことばで書かれてあれば、その文を読む人々が心から感動するように、真心を正しい言葉で話せば、聞く人たちは喜んでいつまでもその話に耳を傾けます」と述べられています。以下、感動の物語が続きます。果たしてこれらの物語は、単に文法を学んだり、あるいは「それ」が何を指しているかを問うための文章なのでしょうか。違うと思います。ひとつひとつの物語が、ひとつの系統をなしながら、生徒たちの心に愛を育む、そういう構成になっているし、そのことを美しいことば、美しい文章で、たからかに歌い上げているのが、この初等科国語「五」の教科書です。
初等科国語「六」
初等科国語「六」では、はじめに「民やすかれ」と祈る大御心が示されたあと、戦時中であった世相を反映して水兵の母の手紙、そして「姿なき入城」から、近代戦では昔のような個の武勲ではなく、あくまで集団戦で戦いが行われることが示されます。そのうえで心を鬼にして人々を助ける「稲むらの火」の物語が紹介されます。この物語は、海浜地区における地震の後からくる津波のおそろしさを伝える物語で、これが義務教育内で教えられることによって、実は戦後もこの教育を受けた人たちの命を大津波から守りました。スマトラ地震のとき、見舞いに向かった総理に、スマトラの大統領が「日本では『稲むらの火』という物語を学校で教えていて、人々を津波から守っているのは素晴らしい」と述べたけれど、時の総理はそれが何を言っているのかわからなかったという逸話があるくらい、戦後は教科書から消えてしまった物語ですが、自然災害の多い日本にあって、とても残念なことに思います。
戦争の話から始まった初等科国語「六」ですが、「稲むらの火」以降は、朝鮮半島の暮らしの話や、月の話、焼き物の話など、情感を伝える物語が続き、そのあと、再び戦争の話が続きます。けれどもその戦争の話は、単に勝ったとか勝利したとかいう話のみではなく、源氏と平家の合戦に際しての熊谷次郎直実と、まだ少年だった平敦盛の物語や、強者として有名な平教経の物語、を配置することで、激しい戦いの中にあっても日本人が決して忘れてはならない武士道精神が語られています。「病院船」の話では、きっとみなさんも涙をにじませられたことと思います。
初等科国語「六」をお読みいただくと、当時の教科書がまさに「道徳的精神と愛の心の涵養」のために書かれたものであることをご理解いただけるものと思います。
(初等科国語「七・八」略)
本書は、決して巷間言われるような軍国主義に傾斜したものでもなければ、価値観を強要したものでもありません。そこにあるのは「愛の心の涵養」であり、その愛が、いかなるときにおいても道徳的精神によってもたらされるものであることが、繰り返し述べられているのです。
近年の国語教育では「思考力、判断力、表現力の育成」などが教育目標として掲げられていますが、思考も判断も表現も、その前提となる価値観によってもたらされるものです。それを言うと「子供に価値観を強要するのはけしからん」と言われますが、価値観に歪みがあれば、思考も判断も表現もまったく別なものになります。
判断や対応には、その前提として、何をもって価値とするのか、何をもって美しいとするのかという道徳的価値観が先ず存在していなければならないのです。
私達がかつての国語教科書を学ぶ意義も、まさにそこにあると思います。それは何が正しいのかという正邪の議論ではありません。そうした正邪を論ずるよりも以前の、私たち自身が日本人であること、道徳心を大切にする社会に身を置いていることを学ぶということです。
小名木 善行(国史啓蒙家)