空の神兵と呼ばれた男たち

インドネシア・パレンバン落下傘部隊の奇跡

奥本 實 磯 米 共著 2021.02.22 発行
ISBN 978-4-8024-0114-2 C0021 A5並製 244ページ 定価 1650円(本体 1500円)

「はじめに────日本人の戦争」より抜粋

空の神兵と呼ばれた男たち

英国の歴史家アーノルド・トインビーは日露戦争と先の大戦の意味を「支那を含めアジアの国々を白人の奴隷支配から救った」と語っている。
日本が負けていたら白人の植民地支配にもはや歯止めはかけられなかっただろう。
支那を含めアジアの国々はすべて白人国家に分割され、そのころのポーランドや仏印と同じように十歳の子供から工場や炭鉱で働かされていただろう。その形はもしかしたら今も続いていたかもしれない。

日本人は先の戦争で多くの犠牲を出したが、それは支那人やビルマ人、インドネシア人から感謝されることを期待してやったことではない。そういう次元を離れ、「一兵卒に至るまで世界を壟断する邪な者と戦った」と信じていたというのが、いくつかの戦跡を歩いて得た答えだった。

スタンフォード大の歴史学教授ピーター・ドウスは「日本を突き動かしたのは白人の奴隷とされ、植民地支配されることへの恐怖心だった」「その恐怖を―恐らく日本だけの現象だろうが―国民一人一人が共有し白人の優越を覆さねばならないと信じて」近代化に励み、戦いになれば力を尽くした。
その成果は「平民を解放したフランス革命より、労働者を解放したロシア革命よりはるかに大きなスケール」で、「有色人の解放という人類史上の大革命を成し遂げた」と。
トインビーも「日本人は神を装ってきた白人の仮面を人類の面前で剥がして見せた。日本人はそれによって白人のアジア侵略を止めただけではなく帝国主義と植民地主義と人種差別まで終止符を打った」(ヘンリー・ストークス『日本人への遺言』)と語る。
日本人はあの戦争を前に自分たちの使命を知り、そして立派に成し遂げた。それを我々は忘れない。


山 正之

目次


はじめに──日本人の戦争 山 正之

第一章 パレンバン落下傘部隊戦記 奥本 實
パレンバン作戦を想う/出陣
挺進基地 プノンペン/離陸発進!
降下、戦闘/第一次遭遇戦
敵の増援部隊を遮断/聯隊主力、第四中隊の行動
第二次遭遇戦/串刺し
第二中隊の戦闘/第三次遭遇戦
停戦交渉/飛行場を無血占領
製油所の攻撃/BPM工場の攻撃
NKPM工場の攻撃/敵の配給で朝食にありつく
挺進団長と合流/部隊感状の授与
第二次挺進隊の降下/パレンバン市を攻撃
大本営発表/戦場掃除
わが事終わる 離隊 後送

第二章 漫画「パレンバン落下傘部隊」ものがたり 磯 米

おわりに 奥本 康大




「おわりに」より抜粋


「空の神兵」と呼ばれ、のちに軍歌・映画にもなった陸軍のパレンバン落下傘部隊は、開戦間もない昭和十七年二月十四日、当時の世界屈指の石油基地であったオランダ領東インドのパレンバン地区に奇襲攻撃をかけた。
記録によると、パレンバン地区を守備するオランダ軍および連合国軍の約千二百名に対し、陸軍落下傘部隊は約三百四十名。隊員の平均年齢は二十四歳! この若者たちが日本の命運を賭け、約三〜四倍の敵の陣地の真ん中に、落下傘で降下するのだから、気力と気迫は並大抵では無かった筈である。にもかかわらず、パレンバン落下傘部隊は、たった一日で飛行場と二ヶ所の製油所を制圧するといった離れ業を成し遂げた。
その戦闘の中で、獅子奮迅の働きをしたのが、私の父である奥本 實陸軍中尉である。
父の殊勲は、パレンバン飛行場東南のジャングル地帯で偶然集結できた僅か四名の部下と共に三十倍の敵と戦い、パレンバン飛行場と市街地を繋ぐ道路を封鎖したことにある。
道路を封鎖したことで飛行場へ敵援軍が来られず、その日のうちに飛行場を制圧することができたのである。制空権確保が第一目標であり、無傷で飛行場を制圧できたことは奇跡に近い。
また、嘘のような話であるが、当時の落下傘の製造技術では、重量物を携えて降下することができず、拳銃と手榴弾だけの最小限の武器だけを持って降下した。
重量物である小銃や機関銃等は、物量箱に入れ落下傘で投下し、降下後に回収する手筈だったが、その物量箱を手にする前に敵兵と遭遇、結果、少ない武器だけで遭遇戦に挑み、撃破・敗走せしめたのである。
パレンバンの大戦果を一番喜ばれたのは、昭和天皇であった。その証として、異例とも思える弱冠二十二歳の父を宮中に召され、単独に謁を賜り、生存者としては稀な殊勲甲を授かったのである。
まさに天が味方したような戦闘であったが、白昼堂々、少数の落下傘部隊が降下し、短期間に要衝を制圧したことは、歴史的にも例をみない快挙であった。反対に、連合国にとっては屈辱的な敗北でもあった。

当時パレンバン地区の製油所では、全体で年間三百万トン年もの石油を生産していた。しかし装置の稼働状況は、その能力の半分程度であった。ところが、制圧後、日本の優秀な技術者たちにより増産改造が行われ、約六百万トンという最大能力での生産を可能にしたと記録にある。
これだけではない。一挙に六百万トンの石油を手に入れても、石油を取り扱える人がいなければ「猫に小判」である。
この大量の石油を南方の戦場だけでなく、日本本土にも供給出来る体制を確立したのが、出光興産の創業者であり、当時社長を務めていた出光佐三であった。
父は、日本の国難というべき貴重な石油を得る戦いで殊勲をあげた。出光佐三は、供給という場で民間人として戦い、足跡を残した。

本書の刊行を機として、昭和十七年二月十四日の「パレンバン落下傘奇襲作戦」を「空の神兵」の名と共に深く記憶にとどめて戴ければ、当事者の家族の一人として嬉しく思う。

奥本 康大

 

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