大東亜戦争敗戦後、長らく葬られていた長野朗の著書が、近年再び読まれるようになったのは、評論家の西尾幹二氏、宮崎正弘氏らによる再評価によるところが大きいだろう。特に西尾氏は、長野朗を、中国人の本質を最も深く理解した代表的論客として評価し、その埋もれていた著作を発掘した。
西尾氏の長野著作への読解は、漢民族の野蛮さ、前近代性、侵略性を暴露したこと、同時に戦前のアジア情勢を、日本と欧米、中露の国益とナショナリズムの衝突としてリアルに分析した着眼点を高く評価するものだった。そして翻って、戦前から現代にまで及ぶ日本の対中認識の甘さや、現在の移民問題に対する危機感のなさへの批判意識を提起している。この西尾氏の読解は、現在のところ、ネットなどに散見する意見を読む限り、長野朗への評価として、ほぼ基本的な認識となっていると思われる。
確かに長野は、歯に衣を着せず、現在ならば確実に「ヘイトスピーチ」と見なされるだろう激しい中国批判を随所で行っている。しかし、長野は同時に、孫文の三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を辛亥革命当初は極めて高く評価し、その日本語訳をも手掛けており、漢民族の文化や生活意識に対しても、ある種の共感をもって接していた。しかし、辛亥革命によって成立した中華民国が、その三民主義の理想(長野の考える)を裏切り、堕落していく経緯に深く絶望し、その後、中国の実情をこれでもかこれでもかと批判、漢民族の民族性をも否定的に、時には露悪的なまでに論ずるようになる。
だが、冒頭の文章からも読み取れるように、それでも長野は、漢民族の「国家」や「政治」とは関わりなく生きていく姿勢と、その基本精神をなす、前近代のアジア社会における「鼓腹撃壌(人々が天下泰平を楽しむ様子)」「帝力我において何かあらんや(帝の権力など自分には関係ない)」といった精神を評価していた。
長野は漢民族の経営法が極めて理にかなっていると述べており、特に商人同士の相互扶助システムを高く評価している。そして、弱体化し、かつ税だけは厳しく取り立てる政府に対する抵抗意識が、資本主義経済を体験し、経済的自由の意義を知った商人たちや労働者たちの中で確実に生まれてきていること、それが中国社会の近代化につながっていることも指摘している。このあたりの長野の筆は、数十年後の「改革開放」政策を、ある意味予見していたかのようだ。
同時に長野が明確に指摘しているのは、漢民族による他民族侵略の本質である。長野は、たとえ対外戦争に勝とうと負けようと、漢民族は水が砂にしみこんでいくように、他民族の領土に移民という形で侵入し、その地を支配していくことを指摘している。西尾氏も長野の著作から教えられたこととして強調している歴史的事実の一つが、満洲帝国建国の時点で、すでに満洲人は、同地においても少数派となっていたことだ。
西尾氏は一九八〇年代の最も早い時点で、外国からの単純労働者受け入れに警告を発し、欧州の失敗した事例などを研究して「労働鎖国」こそが日本の取るべき道であることを訴えてきた知識人だった。その時点では、西尾氏はむしろ日本社会の変質や、労働者の受け入れが逆に差別や国内格差の拡大につながる危険性などを指摘していたが、現在は、それ以上の大きな問題として、中国政府による移民という形をとった「人口侵略」の危険性を西尾氏は訴えている。この問題においても、長野の著作は、現代の私たちにとっても避けては通れない問題を提起しているはずだ。
長野朗はある意味、中国を、漢民族を愛し、理解した「支那通」の一人だった。彼は孫文と国民党の中国革命の理想を、その現実以上に高く評価した時期があった。彼の日本における政治運動には、明らかに三民主義からの影響が見て取れる。長野の中国批判は、時として讃美と表裏一体であり、また彼の罵倒は、時として愛情の裏返しのようにも読める。何よりも、軍閥や国民党の指導者だけでなく、底辺の中国民衆とも長期にわたって接してきた長野の率直な中国観は、現代の私たちにも学ぶところ多大なものがある。
そして同時に、中国の民主化運動、各民族運動に深い共感を持ち、彼らと連帯して行動している多くの日本の政治家や国民にこそ、偏見を持たず、長野の著作に触れてほしいと私は思う。中国における民主化の実現や、各民族独立の理想を実現しようとするとき、私たちがまず触れなければならないのは、中国の現実なのであり、それを直視しようとした先達の言葉に対して、その賛否は別として、目をそむけてはならないはずだ。
本書では、長野朗の中国革命観や社稷思想をまず検証した上で、主要著作『支那の真相』『支那三十年』『民族戦』『アジアの怪奇 中共』などを読むことを通じて、私たちが長野から何を学ぶことができるか、そして、ある意味で「変わらざる中国」の姿を再発見していくことを目指すものである。