ヴィルヘルム一世の容態が急変したのが翌年(1888年)の三月八日、宰相のビスマルクを病室に呼んで軍拡法案について話し合ったあとであった。
翌日、虫の息となった皇帝が今際の言葉を掛けたのは皇后でも皇女でもなく、知らせを聞いて駆け付けたビスマルクであった。
「息子のことだが……」父帝は涙を流して家臣に縋(すが)った。
「助かることはあるまい。帝位はすぐ孫に移る。まだ二十九歳の若造だ。至らぬ点も多かろうが後ろ盾となって支えてやってくれ」
——あの馬鹿が帝位に就けば、ヨーロッパ全土は火の海となってドイツは滅びる。
そう見ているビスマルクは、皇帝の願いに沈黙するほかなかった。
癇が強く、激昂すると相手構わず口汚く罵る皇孫は、国内外で極めて評判が悪い。
ヒステリックにまくし立てる甲高い声は周囲の者をも不快にさせ、両親にすら疎まれていた。
ビスマルクが危惧したのはその性格だけではない。皇孫は軍事に異常なまでに関心を示す。
当時ヨーロッパの国々は領土と資源をめぐって激しく対立し、一触即発の状態にあった。
皇孫が帝位に就くことは、狂人に刃物を渡すに等しいと危ぶんだのである。
このあとヴィルヘルム一世は昏睡状態に陥り、同日逝去した。
享年九十一歳であった。
声を失くした皇太子が「フリードリヒ三世」と改称して帝位を継いだが、執務を行える状態ではない。
病に倒れる前の皇位継承者にふさわしい風貌は完全に失われていた。
皮膚が枯れ、脂肪が失せた顔は髑髏のように変貌し、鼻と喉元からチューブを通した哀れな姿を見て、家臣団は顔を伏せた。
父帝同様に温厚な人柄で、国民から「我らのフリッツ」と呼ばれた子帝は、議会主導による民主的な国家運営を目標とした。
その夢が断たれた子帝は、間もなく帝位を継ぐ長男が国策を誤り、四千九百万人のドイツ国民を災禍に巻き込むことを憂いながら六月十五日に世を去った。
在位九十九日であった。
これで帝位が長男に移った。
帝名は「ヴィルヘルム二世」となる。
こののちビスマルクの危惧は現実となる。
ヨーロッパという巨大な火薬庫に火を放ち、二度にわたる世界大戦を誘発させただけではない。
おのれの野望のために日本を戦火に巻き込み、ロシア帝国を崩壊させ、共産主義思想を世界中に拡散させる惨劇の主役が登場した瞬間であった。