以上、リベラルと共産主義を人間の本能である楽園の夢から分析し、関連する歴史上の事件を紹介した。本書を読めば、共産主義やリベラルへの遠慮はなくなり、日本人は精神的に解放され、本来の思想的な自信を取り戻すだろう。
私はこの研究を始めるにあたり、最初マルクスの『共産党宣言』などを読んでみたが、用語、論理が分からず独善性と憎悪に満ちた文章に辟易して止めた。分からないということはマルクス思想が偽物ということである。
次に米国のソ連通史をひと夏かけて原書で読み、あまりの大量殺人の連続にソ連統治の犯罪性を確信した。また『動物農場』や『一九八四年』などのソ連を批判する本を読んだが、まだソ連を思想運動と思っており全体のカラクリは分からなかった。
このため一九九一年のソ連の崩壊は衝撃的だった。最高指導部が革命当初からマルクス主義を実用にならない思想と判定していたのだ。すると全体が見えてきた。左翼思想は妄想であり、左翼運動はそれを使った詐欺であり、左翼の統治は犯罪だったのだ。彼らの唯一の目的は平和でも平等でもなく、個人独裁と私利私欲だった。二十世紀の人々は末端の左翼を含めて皆、騙されていたのである。
なお、リベラルは人間の救済願望の断片である。だから人の心を動かす起爆力があるが、部分的な真実でしかないので社会全体との整合性がなく、我々が完全に依拠することはできない。ただし、リベラルは水面の泡のようにいくら消えてもまた現れる。
多くの人が共産主義やリベラルに魅力を感じるのは、人間の持つ根源的な希望と関連しているからである。しかし、現実の生活を忘れて希望や夢に夢中になるのは行き過ぎである。その意味で戦後の日本は、夢と現実のバランスが崩れており、夢が過大だった。このためウクライナ戦争の勃発で日本社会は大きな価値観の変動を起こし、一挙に保守の回復に向かって動きだした。
日本人が目指すのは日本社会における保守主義の回復であるが、具体的には日本民族の生態の回復である。生態というのは民族固有の生存の方法である。それは伝統、慣習、価値観、文化、諸制度などの総体だ。これは一千年以上もかけて形成されてきたものだから作り直すことは不可能だ。
しかし、戦後の日本人は占領政策とその後の憲法を含むリベラル反日政策により、本来の生態から引き離されてきた。この結果、必然的に国防不足と人口減少という致命的な二大問題が発生しているのである。しかし、幸い科学や経済力だけは戦前以上の大きな成功を収めているから解決の方法はある。
国防は周辺国と同じ国防力を持てばよいから分かりやすい。現代の戦争の抑止には核自衛は不可欠だ。ウクライナが核兵器を維持していれば戦争は起きなかった。戦後のリベラル左翼の反核は単純な利敵行為と分かったから、止めなければならない。
人口減を解決する少子化対策は、若夫婦にお金ではなく物理的な環境として5LDKの住宅を安く貸与し、義務教育を無償化することだ。人間は多産だからすぐに人口は回復する。これは内需を振興するので経済発展にも大いに寄与することになる。国家の安全と人口回復の具体的な方針が決まれば、日本社会に希望と活力が生まれる。老人も安心して若い世代に後事を託すことができる。
したがって民族の生態を破壊した戦後の占領政策はすべて見直さなければならない。我々は敵の狙いに気づかず民主化、平和などのリベラルのスローガンに踊らされ大事な民族の生態を壊してきたが、止めなければならない。古代ギリシャのデルフォイの神託に「汝自身を知れ」があるが、まさに日本人は自分を見直さなければならない。日本人は別の民族になることはできないのだ。
リベラルや共産主義の信奉者は消えることはないが、当分は騙された国民から好意を持って見られることはないだろう。国防の名言として、トロッキーの「人間が戦争を忘れても、戦争は人間を忘れない」があるが、人間を日本人に言い換えると身につまされるのではないか。また「保守だからといって古いわけではない。リベラルだからといって新しいわけではない」というエドマンド・バークの言葉に元気づけられる保守派も多いだろう。
なお、現代の日本の問題は、共産主義やリベラルの総合的な批判書が少ないことである。このため国民は左翼やリベラルの胡散臭さは分かっているが、正体がつかめず深い霧の中にいるような状態にある。そこで本書がその霧を吹き払う突破口になれば幸いである。そして今後この分野における若手研究者の登場に期待している。