かつて日本国の地図に朝鮮や台湾が組み込まれていた時代があった。日本帝国の時代がそれで、この時代「外地」と呼ばれた朝鮮や台湾には日本人が居住し、「内地」には朝鮮人や台湾人が居住していた。それは彼らが日本国民であったからで、彼らはヴィザを取得してその地に移動した外国人ではなく、国内移民であった。
一九四五年八月、これら移住者たちの多くは故国に帰還する。今日「特別永住」の在日コリアンと呼ばれる人々はこのとき、日本に住み続けることを選択した人々とその子孫であるが、「外地」にいる日本人に選択の余地はなかった。ほぼすべての日本人が引揚げを余儀なくされ、避難行がはじまったのである。
引揚者のなかでも、ソ連軍占領地域からの引揚者には特有の困難と痛ましさがあった。とりわけ大きな悲劇に見舞われたのは満洲在住の日本人であったが、清水家のように、北朝鮮居住の日本人の運命も過酷で、不運であったのは、引揚げが一年以上も先送りされ、出国の自由が奪われたということであろう。それがやっと開始するのは四六年十二月に入ってからのことであるが、多くのものはそれ以前に自力脱出を試み、しかし、その行路で餓死・凍死・伝染病死で亡くなったものが三万五千人ほどもいた。
清水家も無傷ではなかった。五人家族のうち、日本に無事たどり着いたのは四人で、父は、四六年二月二十日、咸興の収容所で亡くなっている。本書に記されているのはその引揚体験であるが、これは難民体験を意味するもので、それは今日でいったら、内戦の過程で国外への脱出を余儀なくされた六百六十万人のシリア人難民や、ロシア侵攻によってやはり国外脱出を余儀なくされたウクライナ難民の体験に似通ったものであろう。
本書に書かれてあることは東日本大震災の体験というよりは、今日のウクライナ難民の体験に近いもので、それは日本帝国崩壊の過程でいまや異郷となった戦場の地を逃げ惑う体験であり、収容所や避難所での生活があるといっても、それは家族や同居者が高熱にうなされ、土色の皮膚に変わり、ある日、ある一家が消えるように死んでいく体験であった。
このような体験を東日本大震災の被災と同程度の不幸と考えるものがいるとしたら、それは満洲地域や北朝鮮地域からの逃亡を矮小化して眺めているというだけではなく、今日のウクライナ難民やシリア難民やアフリカ難民の体験をもその程度にしか眺めていないことを暗示するのかもしれない。敗戦以後、戦争・飢餓・難民といったグローバル体験から遠ざけられた日本人は平和や安全を享受しているといえるが、それはしかし戦争・飢餓・難民といったグローバルな問題に対する感受性の喪失を意味するものでもあるのだろう。
この本は静の本というよりは動の本である。確かに本書には悲しみの記述があり、死の記述があり、やがて死に無感動になる記述がある。しかし徹は「今日もおれは生きているぞ!」と生命の力を感じる少年であり、動く少年であり、母を助けるためにソ連軍の司令部に残飯拾いに行く少年であり、また生きるために母の作ったかぼちゃ羊羹を道端で売る少年でもあった。この本はなによりも、清水家の人々が不幸の合間に動き、働いていたことを教えてくれる本である。
※本書は平成26年に弊社より刊行された『忘却のための記録』を再編集し、普及版としたものです。