昭和十六(一九四一)年十二月八日に、大東亜戦争が勃発する数年前から世界的に戦闘機の性能がよくなったことで、その攻撃力が空母や戦艦にとって大きな脅威となっていた。このため、米海軍は、日本海軍の真珠湾攻撃を機に、戦艦や空母を守るための防空システムの開発に力を注いで「対空レーダー」と呼ばれる新兵器を開発した。
一方、日本海軍は昭和十九(一九四四)年六月十九日から実施される「マリアナ沖海戦」で、攻撃機の航続距離の長さを活かして、敵機の攻撃距離の範囲の外から、米空母機動部隊に攻撃をかける「アウトレンジ戦法」で戦おうとしていた。これに対して、スプルーアンス米海軍大将指揮下の第五八機動部隊は、空母レキシントンに設置した対空レーダーを使って、約二〇〇キロ前方から飛来してくる日本軍機を捉えると、零戦の能力をはるかに上回る能力を持った、最新鋭機のF6Fヘルキャット戦闘機部隊を出撃させて日本軍機を迎え撃ったのである。
これによって、空母からの発艦がやっとくらいの未熟なパイロットが乗った日本軍機は、自分たちよりも高い高度と背後から奇襲攻撃をかけてくる敵機から機体を右、左に滑らせて逃げ回るしかなかった。この敵機の攻撃をなんとかかわして、米空母機動部隊の上空までたどりついた日本軍機が次に襲われたのが、「VT信管(近接信管)」という起爆装置の付いた砲弾の嵐だった。
通常の砲弾には、発射すると自動的にタイマーが働いて爆発する「時限信管」が使われていたが、この砲弾は、電波の発信機と受信機の付いたVT信管から半径十五メートルの範囲で、ドーナッツ状に電波を発信しながら飛んでいき、敵機が近付くと、その反射音を受信し、自動的に信管が働いて爆発する仕掛けになっていた。これによって、この砲弾の命中率は、通常の砲弾と比較して、二十倍も跳ね上がったため日本軍機は、直接に砲弾が当たらなくても、爆発した砲弾の中に飛び込むことになるので、その爆風と破片で撃ち落とされたのである。
この戦いで、日本海軍の空母機動部隊(空母九隻)の内、空母三隻が沈没し、残る六隻も敵の潜水艦や敵機によって大きな被害を受け、艦載機の大半が失われて壊滅したが、米機動部隊は一〇〇機の艦載機を失っただけで終わった。連合艦隊は、アウトレンジ戦法が敵の対空レーダー、VT信管、F6Fヘルキャット戦闘機の前で完全に封じられたことで、ほとんど壊滅的な状態に追い込まれ、南太平洋の制海権を失った。これによって米軍には、単に物量の格差だけではなく、兵器の性能や戦法などの面で到底太刀打ちできないことがはっきりした。
これまでの日本軍の常識を超えた戦法を模索する着想や意見は、既にソロモン地域での苦戦の頃から胎動していたが、日本海軍首脳部では「必死必中」の特攻戦法を受容しなかったため、具体的な進展は見られなかった。だが、従来の「伝統的な戦法」(日本海軍では九十九%死を伴う「決死攻撃はつねにこれを行うけれども、はじめから生還の道のない攻撃法は、断じてこれをしりぞけてきた」)から「必死必中」の特攻戦法に転じたのは、こうした特殊な事情が背景にあったことを理解しておかなければならないだろう。
別言すれば、当時の日米航空戦力の格差から戦局は、「九死に一生」の大原則を踏み越えざるを得ない様相を呈していたと言えるからである。その第一の現れが、連合艦隊の主力である栗田艦隊の「レイテ湾なぐり込み」の作戦であった。
この栗田艦隊を空から掩護するために新たに第一航空艦隊司令官に就任した大西瀧次郎中将は昭和十九年十月十七日に、フィリピンに到着すると、寺岡謹平中将(元第一航空艦隊司令官)と懇談して特攻作戦の合意を得た。大西中将は十九日に、マバラカット基地を訪ねて二〇一空副長の玉井浅一中佐に体当たり攻撃の意図を示した。こうして海軍神風特別攻撃隊(通称、神風特攻隊)が二十日に、初めて編成されたのである。開戦以来、搭乗員の自発的行為によって体当たり攻撃が実施されたことはあったが、航空艦隊司令官の命令によって、伝統的な海軍の戦法に反した、特攻戦法が実施されるに至ったのは海軍史上において、これが初めてであった。
神風特攻隊の四隊(敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊)は、翌日から二十四日まで出撃したが、天候不良のため敵を発見できずに帰投した。二十五日に、ようやく神風特攻隊が第五一機動部隊の護衛空母群への体当たりに成功すると、米軍は、今後の戦闘に一抹の不安を感じるようになった。戦後、R・L・ウェアマイスター米海軍中尉が「神風は米艦隊の撃滅には成功しなかったが、多大の損害を与えた。在来の戦法ではとてもこんな成果を上げられなかったであろう」と述べているように、わずか十数機の神風特攻隊が同日に、護衛空母群を攻撃した栗田艦隊(戦艦大和以下、数十隻)と同じ戦果をあげたことで、「この果敢な神風特別攻撃隊の攻撃を目撃した米軍の将兵のほとんど全部がその凄まじい状況にのまれて、しばしその場に釘付けにされた」からである。
このときから神風特攻隊は、「マッカーサー元帥、ニミッツ元帥、ハルゼイ海軍大将をはじめとして、アメリカ全太平洋艦隊の将兵を悩ましつづけ、米軍の頭痛の種になっていった」のであるが、特攻が終戦の日まで休むことなく、続けられたのは、「この一命にかえて、美しい故国、愛する父母、兄弟を救うことができるのは、自分だ、と信ずる若者たちが跡を断たなかったからである」
戦後、欧米諸国で出版された特攻に関する書物を見ると、特攻隊員の精神と行為の中に、キリスト教の教え(「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ヨハネ伝第十五章十三節)と同じ価値観を見出して賞賛の言葉を惜しまない者がいるのである。
例えば、「カミカゼ特攻隊はたしかに大きな損害を米軍に与えた。そしてカミカゼのパイロットたちが、勇敢な人たちであったことは疑いがない。そしてアメリカ兵が〝カミカゼ〟を恐れ、怖がったことは否定できない。実際、パニックが起こりかけていた」と、当時の米軍の被害状況を伝えた、UP通信(現UPI)の従軍記者だったアルバート・カフが述べ、またフランスの作家・文化大臣のアンドレ・マルローが「日本は太平洋戦争で敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。……私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべて乗り越えて、いさぎよく敵艦に体当たりした特別攻撃隊員の中に、男の崇高な美学を見るのである」と語ったように、かつて敵だった外国人の方が神風特攻隊の戦果や自己犠牲に対して、高い評価を与えているのである。
にもかかわらず、戦後の日本では、戦時中に行われた特攻には前例がなかったことから「特攻を最大の罪悪のひとつと見立てて、絶対服従を強要する上司の命令のために、いやいやながら死んでいった若い将兵たち」という誤った見方が生まれ、この特攻の真実を、同じ日本人が封印して特攻を批判したり、彼らを憐れんだりする風潮があったことは実に残念なことである。
戦後の日本人は、戦後の日本の平和が当時の青年たちの思いを礎にして築かれているにもかかわらず、ただ「遠い昔にあった悲劇的な戦争」くらいにしか思わなくなっているが、前出の大西中将が新聞記者に対して「ここで、青年が起たなければ、日本は滅びるだろう。青年たちが国難に殉じて、いかに戦ったということを歴史が記憶している限り、日本と日本民族は滅びることはない」と語ったように、大東亜戦争の世界史的意義や神風特攻隊の真実を自信と誇りを持って、子孫に語り伝えていかなければならないのである。
※本書は平成二十四年七月刊『世界が語る神風特別攻撃隊』をリサイズした普及版です。