『国民礼法』は昭和十六年四月に刊行された。戦前の「修身」の授業で小学生に対して用いられた教科書だ。礼法については武家の礼法である小笠原流を基本としている。
この年の年末には周知の通り、太平洋戦争が勃発した。そのためか、五年生で習う「貯蓄報国」の項目に「贅沢は敵である」「人の物をうらやましがらぬこと」という文言がもう既に登場する。「隣組」についても記され、それは国防の第一歩であるとし、さらには戦後を見越して、傷痍軍人や戦死者の遺族に対する振る舞いについてまでも記されている。
しかし全体を通した内容は戦争前夜とは思えぬほどに優雅であり、ゆとりが感じられる。
六年生時には「日本料理の食事作法」と「西洋料理の食事作法」が登場し、贈り物の包装や贈答の心得、水引の結び方まで細かく指導される。贈答に関しては五年生で既におおよその内容が提示されている。
私がやや驚いたのは、早くも四年生の段階で皇室について、国家について、神社の礼法、焼香と玉ぐしの礼法という、日本人としての常識や冠婚葬祭の礼法が伝授されるということだ。
特に神社や焼香の際の礼法は、たいていは他人の真似をするだけの私にとって極めて身につまされるものだった。
神社で打つかしわ手にこつがあるなどとは思いもよらなかった。右手を手前にずらし、手を少しすぼめて空間をつくるとよい音が出るのだという。言われてみれば、年配の方はそのような動作をごく自然に行っている。これも国民礼法を学んだおかげなのだろう。
かしわ手を打つのはひつぎに玉ぐしをささげるときにも同様なのだが、その際には無音であるという。これまた初耳であり、己の無知とこれまでにしでかした無作法に、ただただ恥じるのみだった。
「修身」の時間とその教科書『国民礼法』は戦後、GHQによって廃止となった。日本人の弱体化計画、WGIPの一環というわけである。
その結果、どんな弊害が起きたのかは言うまでもないだろう。
国旗や国歌に敬意を払わない教師や生徒。祝日だというのに国旗を掲げない一般家庭。
我が家では昭和三十年代までは祝日には必ず国旗を掲げていたし、それはご近所でも同じだった。だんだん掲げづらい雰囲気になってきたのは、昭和四十年代からだと思う。それは戦後教育の〝成果〟が実り始めた時期と一致する。
そして昨今の、皇室を敬うどころか、特定のご一家について、「あることないこと」ではなく、「ないことないこと」について堂々と悪口を言うという風潮である。この件については、私が専門の動物行動学と並んで力を入れており、皇統の根幹をなす、男系男子による皇統の継承に関わる問題である。スキャンダラスな話題に簡単に飛びつき、騙され、誘導される日本人。日本人は「修身」と「国民礼法」を失っただけでかくも著しく劣化してしまったということだろうか。
日本には国会内にすら反日勢力がはびこっている。共産党、立憲民主党は明らかにそうである。自民党内にすら、皇統の問題を正しく理解できない議員も少なくない。
実は安倍元首相は、皇統の問題を完璧に理解し、男系男子による皇統の継承と旧宮家の皇籍復帰を明言する、唯一といっていいくらいの大物政治家だった。私が呼びかけ人の一人となっている「皇統(父系・男系)を守る国民連合の会」でも安倍元首相に対する期待は絶大であり、安倍氏ならきっと何とかしてくれるという甘えがどこかに存在していた。
周知の通り安倍氏は凶弾に倒れ、その希望は断たれてしまったが、だからと言って諦めるわけにはいかない。今後は皇統について正しく理解している国会議員たち、そして国民の一人一人が理解を深め、意識を改革し、まっとうな主張を繰り返していくよりほかはないだろう。
国民礼法が存在し、皇室への敬意が自然と我々に備わっていたなら、今頃そんな苦労は必要なかっただろうに。なんとも惜しいことだ。いやいや今や、そんなことを愚痴るよりも、もっと大事なことがある。GHQの企みに振り回されないことだ。我々は今こそ日本人の魂を取り戻すべきときなのである。