僕が支那事変のために応召したのは、昨年の夏だったが、戦いの期間は大へんみじかい。はずかしいくらいである。そしてその年の十一月に負傷して、各地の陸軍病院を転々として本年三月下旬、応召解除となり、最近再び応召したが、身体が悪いというので帰されてしまった。まったく、残念千万である。
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ここに収めたものは、戦線で書いたもの、陸軍病院で書いたもの、および応召解除後に書いたものの三つにわかれる。そしてこれらの散文の大部分は、「大阪毎日徳島版」「グラフィック」「文藝春秋現地報告」に発表、また詩の一部は「セルパン」「グラフィック」「文化学院新聞」などに掲載された。
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みじかい僕の戦争の体験である。立派なものの書けようはずがない。ただ、ほかのひとたちの描いたものと、多少味がちがっているところがあれば幸いである。十字火〔十字砲火〕の下の兵卒の姿がすこしでも描かれていたならば、よろこばしい。歩兵一等兵である著者には、一等兵のことだけしかわからない。
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これらの散文、詩を書くについて、中島大毎内国通信部副部長、西川同徳島支局長の御力添えは忘れられない。また「グラフィック」の越寿雄氏の熱心なおすすめがなければ、この本の三分の一は生まれなかったろう。厚く感謝の意を表する次第である。
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この本の原稿はバラバラのまま春秋社に送られた。僕の再度の応召のためである。したがって未発表の原稿など生のままで、めちゃめちゃな文章である。あれやこれやと筆を加えたいのだったがやむを得ない。──ただ、僕の支那事変の記念品としては、これはいいのかも知れないけれど。
昭和十三年十月三日夜
大阪毎日編集局にて
松村益二