僕は決して戦争が好きで、戦争に参加するために学業を投げ打ち、帰国したわけではなかったが、結果においては、参戦するために帰国した形になってしまいました。それもわずか二カ月の短時日ではありましたが、実にいろいろのことをその戦争から学びました。そのことは、あるいは僕が一生かかっても学び得られないことだったかもしれません。
とにかく、僕の頭の中は今でも、砲弾の音と、機関銃の音と、手榴弾の音と、それからもう一つ、飛行機からの投下爆弾の音でガンガン破裂しそうです。それからさらに、腥い血の匂いと、汗の匂いと、火薬の匂いと、それらの匂いで今でも胸の中がむかついています。そうした感覚の紛糾混交したものが戦争です。僕はこの二度と得がたい戦争を記録しておく決心をしました。しかもこの戦争というものは今も申し上げたように、非常に揮発性を持った感覚の集合体です。これが発揮してしまってはもう戦争は書けません。よく書いたとしても、それは戦争の抜け殻です。そんなものは書きたくありません。幸い、僕の耳にはまだ、砲弾にやられた断末魔の人間の叫喚が残っています。腥い血の匂いが鼻に残っています。バラバラになった人間の腕や、脚や、首や、胴や、そんなものが眼に残っています。
僕は書きました。徹夜のしつづけで書きました。「敗走千里」の第一部「慰労隊の巻」〔本書〕がそれです。この中に、僕の言う戦争の匂いが出ていれば、それを感覚していただければ、幸甚に存じます。(手紙の一節より)
陳 登 元
二十世紀の文学界に最高を占むるものと激賛!!
激賞の潮!! 遂に百万部突破!!
偉大なる戦争文学は戦勝国からは生まれない。「西部戦線異状なし」は敗惨したドイツから生まれ、日本海大敗記「対馬」はロシア文学だ。そしてこの「敗走千里」は敗惨支那兵の血で綴られた長編文学だ。
戦勝日本が旗と提灯行列で歓声を上げていたとき、彼らは飛乱した人間の肉片、累積した屍の塹壕の中で死闘していたのだ。
敗惨兵が血達磨の如き敗走の中に繰り展げる、野獣の如き飢餓と性欲の地獄の絵巻、屍を喰う野犬、野良犬を捕えて喰う兵士、寸刻を享楽する息詰まる弾丸下の肉欲!
これこそ正視できない二十世紀戦争の生々しい現実の描写である。
当時の書籍広告より――
陳登元君を識ってからいつか十年近い月日が経っている。彼の父親というのは、日本へも幾度か来たことのある実業家で、ばりばりの親日家である。その親日家の彼が、息子の登元君を日本へ留学せしめたということは、至極自然で、当り前で、少しも異とするに足りないことだ。それにも拘らず、私があえてそのことを揚げつらうのは、「よくも思い切って……」という少なからざる驚嘆の心が潜んでいたからである。
管々しい経緯は省く。とにかく彼が東京の土を踏んだのは、彼が十四、五歳の時分だったと記憶している。十四、五歳と言えばやっと、日本なぞでも小学校を卒業する時の年配である。その西も東も知らない少年の陳登元君は、海山千重、遥々と支那奥地の重慶からこの日本へと一人旅を続けてきたのである。全く、よくも思い切って、両親も手離すし、自分も出てきたものである。
ある機会から、私は彼に日語の個人教授をすることになった。つまり、それが彼を識った初めだった。彼は一年ばかりで私の日本語を卒業してしまった。彼は全く語学の天才だった。彼は中学から大学へといとも順調に進んでいった。昭和十三年の春にはその大学も終える予定だった。
ところが、そこへ突発したのが日支事変である。八月二十日、彼は栢ウとして東京駅からその郷国へと立った。卒業まであと半年というところへきていた彼は、おりからの暑中休暇をも東京で過すべく頑張っていたのだった。
が、事変が上海へ飛火し、更にますます拡大する傾向が見えた時、彼はある日悄然と私のところへやってきて「先生、僕、ともかく一度郷国へ様子を見に行ってきます。学校の方が大事ですからすぐ帰ってくるつもりです」そう言って別れたのだが、彼はそれきり帰ってこなかった。一カ月、二カ月、三カ月……私は色々想像した。おとなしい彼のことだから大抵家の中にすっ込んで、世間の様子を見ているのだろうが、ことによると、抗日救国会の仲間入りをして、口を尖らかして民衆の間に演説でもして廻っているんではないかしら──と。
が、私の想像は裏切られた。彼のところから、この一月、どさりと、大部の原稿が届けられてきたのだ。一通の手紙と一緒に。それによると、彼はいま上海にいるらしい。上海にいてこの原稿を書いたのだ。手紙は簡単だった。僕は、日本を立って家の敷居を跨ぐと間もなく兵隊に強制徴募されました。そして江南の戦線に送られました。砲煙弾雨の中の生活を送ること二カ月、私は相当の重傷を負いました。そして病院に収容されました。生命にも及ぶほどの重傷だったのですが、幸運にも私の傷は日増しに快癒に赴き、早晩退院できるところまで漕ぎつけました。ある日私は病院を脱出しました。マゴマゴしていると、また銃に縛りつけられ、戦線に送還されるからです。
僕は書きました。僕の経験し、見聞せる範囲内においてのほとんど残らずを書きました。別送の原稿、お忙しくはありましょうが一つ読んで下さいませんか。戦争とはこんなものです。僕は神の如き冷静さをもって、純然たる第三者の立場から、すべてを客観し、描写しました。
……手紙はまだ続いている。が、後の分は彼の自序ということにして、別に揚げることにして、とにかく彼はこの原稿を見て貰って、出版の価値があるなら出版して貰いたいというのである。文章その他内容に亘っても充分の添削をお願いするというのである。
私は早速読んでみた。無論出版の価値はある。あるどころか大ありだ。が、問題は、彼の書いた原稿が、彼の心配している通り、そのままでは少々困る点のあることだ。私は彼の希望通り容赦なく訂正した。文章そのものについても、骨子を損せざる程度には斧鉞を加えた。
それから、文中至るところに出てくる軍隊についての固有名詞である。連隊長とか、分隊長とか……それらはいずれも、本書が日本の読者を対象とするが故に、日本の読者に理解され易いよう、日本陸軍の職制に翻訳して掲出したことである。例えば、中隊長は、原名では連長であり、小隊長は排長、分隊長は棚長である。また軍曹は中士、伍長は下士であるが、排長や中士ではどうも読んでいて実感がこない。それで、それらは気のついた限りいずれも日本陸軍の職制名に翻訳した。
以上の他、言葉にも、文章にも、充分日本人に成り切っている彼ではあるが、まだどこか、外国人らしい舌足らずの点が目触りになったからである。
それから「戦争とはこんなものです」と言って「戦争」そのものを一掴み掴んで投げ出してくれた「敗走千里」について、私は支那軍の立場から忌憚なく支那軍の内情を曝露してくれたところに得難い文献的価値を見出すものであるが、それと同時にやや不満を感ずるところのものは、この作者が少年時代からずっと日本にいて、その生活感情から、思想傾向から、半日本人化していることである。チャキチャキの抗日救国思想でかたまった純粋支那人でないことである。そこにどうしても、彼の戦争観が偏屈なまでに純粋な支那人臭のない、あまりに客観的公平過ぎることである。
我々の本当に知りたいのは、頑固なまでに支那人の体臭を失わない、ニンニクと、アヘンと、抗日救国思想の横溢した人間の書いた戦争である。
が、そういう我々の本当に求めているところの戦争小説はまだ一つも見当たらない。その内には出るだろうが、今のところ何と言っても陳君の「敗走千里」に止めを刺すようである。
最後に、本書の出版に当たって多大の御厚意を賜った教材社主高山菊次氏に厚くお礼を申し上げて擱筆する。
昭和十三年三月一日
別院一郎
自序 陳 登元
後序 別院一郎
塹壕生活
斥候
恐ろしき芋掘り
日本の恋人
慰労隊
仲間喧嘩
呪われた中隊
白兵戦
逃亡か 投降か
中隊長 帰る
李 芙蓉
狼
ある日の夢
陣中の恋文
愛する者へ
卑怯者
雨の夜の祝宴
夢は予言する
少年兵の死
餓狼の集い
呪わしき戦争
※本書は2017年に弊社より刊行された『[復刻版]敗走千里』を再編集し、普及版としたものです。