大英帝国がインドを経て清に至った時のこと、中国史上初めての状況が出現した。それは、延々と続いてきた中華帝国の伝統が清で途切れ、世界が天下でなくなったことである。
それまでの王朝は、国家ではなく天下であり、天朝朝貢冊封体制と呼ばれるシステムで周辺諸国を睥睨していた。それは文字通り、天命を受けて統治する王朝(天朝)が、周りの国々から朝貢を受け、それに対して冊封(官位と暦の授与)しながら天下を治める体制だった。それが易姓革命を経ながらも延々と続いてきたのがこの地の変わらぬ風景だった。
ところが、ここに異変が起こる。西欧列強、とりわけ大英帝国による侵攻が、この体制を根本的に変えたのだ。インドを席巻した大英帝国は阿片戦争、次いでアロー戦争の勝利を経て自由貿易を清朝に強要する。当初清朝は、西欧列強の侵攻を撫夷(夷狄をなつかせる)をもって懐柔しようと試みたが、ことここに至ってはもはや如何ともしがたかった。その結果、朝貢冊封体制は崩壊し、世界に君臨していた天朝も数ある国の一つとなり、近代国際関係のただ中に組み込まれた。
それを、国内的に追認したのが辛亥革命である。それは、「中華民国」の国号が明確に示している。この時、当地の支配は「天朝ではなく『国家』が担うもの」となり、その版図内の民衆は「国民」と呼ばれる存在へ移行してゆく。
それまでの天下には一人の国民もいなかった。そこにいたのは天子(天の子=皇帝)によって支配される天民と呼ばれる者だったが、彼らは二つの階級に分別され「漢字族」とも称すべき漢文を読め、漢語文化に親しんだ知識人や官僚と、それ以外の民衆に分けられた。一般に、前者が君子、後者が小人と呼ばれている者らである。この二者は厳格に峻別され、共にあることは一切なかった。ただ、この漢字族には、民族に関係なく誰でもが参加資格を持っており、かつてはこれが正式の中国人とされていた。
この概念はつい先ごろまで本邦の中国学会などにも残存し、中国文学の泰斗・吉川幸次郎は、学会の冒頭で「われわれ中国人は」とする挨拶からスピーチを始めたとの逸話がある。東夷である日本人も、中華文化に精通すると、中国人になれたのだ。
一方、この文化概念は、他民族への強い同化作用も及ぼした。長い中国史を見てみると、北方異民族に侵略され、その征服王朝が長く君臨していた時期もあったが、いつしか中華文明に啓蒙され、同化されてゆくのが常だった。この歴史観は長城外(関外)では通用せず、モンゴルもチベットもウイグルも中華文明に同化することはなく、またフロンティア諸民族が強大になり出すと逆朝貢が強要され、かつそうした諸民族も自らの文字を持ち、独自の文化文明を有することで中華世界から離脱していた。
だが、それでも何とか中華世界の面目は保っており、北狄の満洲族も清朝として君臨すると中華文明を採用し、その支配をなしている。
ところが、西欧は違っていた。彼らはいささかも中華文明に篭絡されず、却ってその文明を浸透させ、中国社会を欧化してゆく。これは中国史上初めての現象だった。
辛亥革命から始まる中国の近代史は、まさにこの欧化の中で進行してゆく。と同時に、それは列強諸国(西欧・ロシア・日本)に虫食いのように侵食され、半植民地になる屈辱の時代の到来だった。彼らが言う「百年の屈辱」が始まったのだ。今から述べる中国共産党は、この屈辱のただ中で誕生した。
では、その共産党の過去と現在、そして近未来につき、以下において語ってゆきたい。