重光葵について語る上で、次の三点を強調したい。
まず、あの時代に重光のような日本人が実在したことは驚きである。重光は叙勲しているが、あまりにも過小評価されている。重光を知る者は、欠点がないのが欠点と重光を評したというが、その国益への貢献たるや吉田茂の比ではない。戦前、戦中、戦後と外交官、大使、さらに外務大臣として、幅広い国際的視野を持ち、常に国益の観点から尽力した重光を今こそ日本人は再評価すべきである。
第二点として、重光のような人材を擁しながらも、日本は開戦を避けることができず、壊滅的な敗戦を喫したという事実である。あの時代の日本の他の指導者たちが推進し、かつ、日本国民の多くが支持した道は、重光が示した道とは全く逆だった。勝ち残る道があったにも拘らず、日本は敗戦すべくして敗戦したのである。重光の合理的な判断は活かされなかった。この点を重く受け止めるべきである。
第三点として、今の日本に最も必要なのは重光の如き人材である。日本は百年に一度の国難を迎え、存亡の危機に立たされているが、政治家も官僚も、国民の多くもそのことを認識していない。今の日本の危機は一九九〇年代初頭から一部の優れた欧米の国際政治学者が予言したことではあるが、重光が懸念したことでもある。戦後、日本人は重光が示した道を歩まず、その当然の帰結として今日の危機を迎えるに至ったのである。重光が今の日本に在ったなら、何を言い、どう行動したであろうか? 今の日本には、重光のような国際性と分析力と行動力と胆力を持った指導者が必要である。そのような人材を見出すためにも、重光の再評価が絶対に必要なのである。
重光を再評価するために、一人でも多くの日本人に巣鴨日記を読んで欲しい。東京裁判が膨大な時間を費やして個別事実の検証を行うふりをしながら、いかに一方的な復讐劇であったか。囚人たちがいかに過酷で屈辱的な環境下に置かれたか。その中にあってなお、くじけることなく、媚びることなく、日本の将来を案じ続け、敵国である欧米からも尊敬と信頼を集め、真摯に弁護された重光の生き様を見れば、その偉大さが理解できるだろう。そして、今こそ重光の精神を復活させることが日本民族の存続に不可欠であることを確信するだろう。