日中戦争は昭和12年(1937年)7月から昭和20年(1945年)8月ですが、中国の中で戦われたのだから日本の侵略戦争に決まっている、と素朴に信じている人が多いようです。まずは、弱い中国に勝手に進出していき、軍隊を駐留させたのが侵略の始まりであり、その後のいざこざが次第に本格的な戦争へと拡大していった、と思っているわけです。
日清戦争は明治27年(1894年)7月から明治28年4月でしたが、日本は清国に圧勝し、下関条約により台湾、遼東半島の割譲を受けました。しかし、日清戦後に日本は中国(清国)に軍を駐屯させてはいません。その後、最初に軍を派遣したのは、明治33年(1900年)、義和団の乱の発生により日本人を含む外国人居留民の殺害が広がったため、日英米仏独露など8か国が連合してこの鎮圧にあたった時です。義和団事件の最終議定書「北京議定書」(1901年)によって、居留民保護のために、一定の兵力を「天津―北京」間に駐屯することが認められました。後に盧溝橋事件の時に攻撃を受けることになった支那駐屯軍はこの条約に基づいて駐屯していたものであり、完全に合法的な駐屯軍でした。
すなわち、日本軍が弱い中国に勝手に進出していたなどというのは、全く根拠のない空想です。
本論で詳しく説明しますが、合法的に駐屯していた支那駐屯軍が、一方的に中国側から攻撃を受け、紆余曲折がありましたが、衝突が次第に拡大していったというのが、日中戦争の実態です。
そもそも国際法では、挑発がなかった状態で、合法的に駐屯している軍隊に対して先に攻撃を仕掛けたほうが侵略者となります。その場所が、自国内であるかどうかにかかわらずです。分かりやすく言いますと、こういうことです。現在アメリカ軍が、日米安保条約に基づいて合法的に日本に駐屯しています。このアメリカ軍に対して自衛隊が一方的に攻撃を仕掛け、戦争状態になったとしますと、戦場が日本国内であっても、侵略者は日本の自衛隊になるということです。
盧溝橋事件以降、中国で起こったことは、これと同じようなことでして、中国軍が不法な攻撃を日本軍に仕掛けてきたことが戦争の始まりであり、またそれを拡大していったのも中国側だったのです。決して日本陸軍の統制派、拡大派が拡大していったわけではありませんでした。
盧溝橋事件は、戦争の発端となりましたが、小さな衝突事件で、「事変」という次元の戦いでした。しかし、この事変が、さも日本軍による侵略であるかのような「宣伝戦」を徹底して行い、蒋介石政権を戦わざるを得ない方向に向けていったのは、中国共産党でした。
そして、本格的な衝突となり、「戦争」へと拡大したのは、上海事変(第二次)からでした。上海には、共同租界にいるおよそ3万の日本人居留民を守るために、海軍の陸戦隊(4500人)が駐屯していました。これに対して昭和12年(1937年)8月13日、非武装地帯に潜入していた中国正規軍3万が一方的に攻撃をかけてきたのが上海事変です。
もはや事変ではなく本格的な戦争になっていきました。何しろ蒋介石は8月15日には全国総動員令を敷き、大本営を設置し、自ら陸・海・空三軍の司令官に就任していたのです。これこそ、まさに中国軍による日本に対する侵略戦争にほかなりません。
何よりも、日本は「侵略戦争」を始めたのではないことをぜひ知っていただきたいと思います。どうして戦争が起こり、それが拡大していったのか、だれが拡大の主役だったのか、などについて、事実に基づき説明していこうと思います。
泥沼の戦いへの決定的な転換点が、日本政府から蒋介石政権への『国民政府を「対手トセズ」声明』であったことはよく知られています。ではどのような経緯、事情、どのような勢力によってこの声明が発出されることになったのかをご説明して、本書の結びとしました。ぜひお読みいただければと思います。