戦犯者として我々四千人は世界の憎悪の只中に於て或は刑場の露と消え或は八年に亘って内外の獄舎に繫がれて来た。その当非は後世史家の判定に俟つとして、少くとも戦争に参加し、悲惨なる結果を世に招来した一員として、我々は現在与えられた運命の中に於ても可能な限りの価値を生み世にのこすべき義務があると思う。然るに刑死獄死せる囚友の遺稿を見るに自己の死よりも肉親を思い国家世界を憂えて平和再建への切々たる祈りを遺している。それは亦遥か万里の涯よりこれに参加せんとの必死の努力に外ならず、これら一千名の悲願を世に伝え将来に生かすことこそ、同じ運命の中に生き残った我々の責任と痛感せざるを得なかった。
この念願より昨廿七年八月同志糾合して遺書編纂会を結成し戦犯遺稿集刊行の企図を全国の遺族に訴えたところ、予期以上の反響を呼び続々と資料が寄せられて、あたかも遺族はこの機会の到来を一日千秋の思いで待たれた感があった。未決拘留中の死没者は正しくは戦犯者と云えないが「戦争裁判のため斃れた人々」と云う意味に於て同様に呼びかけこれまた快く賛同を得たのであった。
戦犯刑務所は巣鴨の外、大陸南方諸島五十余個所に及ぶが、その大半は筆紙の所持を厳禁し、或は筆紙を与えても処刑後遺稿を没収した。また監視の目をくぐって書き遺されたものの、現地に秘匿したまま遂に持ち帰れなかったものもあり、これらの実情より見て集め得る遺稿は多くとも死没者の三分の一と推定していたが、事実は予想の二倍、七〇一篇に達した。これは現在集め得る殆どすべてと云ってよいであろう。この中には最近比島マヌス島よりもたらされたものの外、他の遺稿中に記録されていたもの、原本のまま遺族にも渡されず都内に保管されていたもの等当会に於て発見した数十篇をも含んでいる。これも固より遺族の御賛同のもとに収録したものであって、諒解を得られなかったため割愛したのは四篇に過ぎない。尚韓国台湾出身者の分は遺族との連絡困難な為同郷の在所者と協議の上これを収録したことをお断りして置く。
蒐集した資料は遺書以外に、日記、手記、随筆、詩歌、書翰、伝言等少くとも故人の心を知り得るものはすべてに亘っている。これらは便箋や旧軍用罫紙に書かれたものの外、包装紙、トイレットペーパー、莨の巻紙、書物の余白、又余白を截って貼り継いだもの等があり、紙以外にも、敷布の断片、シャツ、ハンカチーフ、板等も含んでいる。その大部分は鉛筆書きであるが、ペン書、墨書、血書等もあって、中には汚にしみ、ボロボロになったものもある。これらを見るとき故人が如何に苦心し、心血を注いで遺志を伝えんとしたか、またこれをひそかに持ち帰るに囚友、教誨師諸氏が如何に苦労したかが明かにうかがわれる。
編纂の方針としては何等特定の色彩方向をもたず、どこまでも個々の意志に忠実を旨とした。この方針より資料の整理選択は㈠誤字脱字は訂正する。㈡意味明瞭な造語、当て字や仮名づかいの不統一等で差支えないものはなるべくそのままとする。㈢紙数多き遺稿はなるべく最期に近いものの中より遺志の最も明確な部分を選ぶ、等によって行った。斯くして数万枚の資料を蒐集整理して原稿用紙約二八〇〇枚に纏めたのであるが、これ迄に一年余を費したのであった。この間最善をつくしたつもりであるが力の及ばなかった点は深くお詫びしたい。
思えば当初は謄写配布の資金の目途さえなかったにも不拘我々の念願が正しい限り必らず道は通ずるとの信念から、遺族にも印刷配布を約して編纂に着手したのであった。途中幾度か道は絶えんとしたが、遂に夢想だにしなかった立派な形で我々の念願が実を結ぶに至り誠に感慨に耐えないものがある。定めて海彼にねむる霊も感泣していることであろう。
昭和廿八年九月一日 巣鴨遺書編纂会