古代出雲という言葉の持つ響きに、何となく魅せられる人も多いのではないだろうか。
それは、何かわからないけど、秘密が隠されているような、そんな神秘性を感じさせる言葉だからかもしれない。あるいは、そこに古代のロマンを人は見るからだろうか。遠い過去の記憶がよみがえる気がするからだろうか。
古代出雲には、実はわからないことがたくさんある。わかっていることのほうがむしろ少ないかもしれない。
『古事記』によれば、出雲の大国主は出雲だけでなく、葦原中国を治めていたという。葦原中国とは日本のことだ。それが、あるとき、天皇家の先祖である天孫族に支配権を委譲したのだそうだ。その交換条件として出雲大社が造られたという。
この話は歴史家からは単なる神話として無視されてきた。それが、ここ数十年の間に、出雲で大量の青銅器が出土したり、王墓と目される大型の四隅突出型墳丘墓が何基も発見されるにおよび、専門家の見方が大きく変わってきた。
出雲に大王がいた可能性が浮上してきたのだ。彼はもしかしたら、『古事記』の言う大国主ではないのか、日本を支配していたのではないのか、倭国王ではなかったのか、そういう問いかけが俄かにかまびすしくなってきた。
はたして、『古事記』の言うように、出雲の王である大国主は日本を支配していたのだろうか。それとも、それは神話でしかないのか。これは出雲の謎の一つである。
神話が歴史的事実を反映していたケースは多々ある。ギリシャ神話に登場するトロイの木馬の話から、ハインリッヒ・シュリーマンが古代遺跡を発見した話は有名だ。アーサー・エヴァンスがミノタウロス伝説からクレタ島のクノッソス遺跡を発見したのも同様である。
出雲でも同様のことが起こるのだろうか。『古事記』の言うことが真実なのだろうか。
奇しくも今年(2013年)は、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮と60年〜70年に一度の出雲大社の平成の大遷宮が行なわれる年だ。
東の伊勢神宮に対して西の出雲大社と言われるように、出雲大社は皇祖神・天照大御神を祀る伊勢神宮と肩を並べる存在である。
さらに、全国には天照大御神を祀る神社よりも出雲系の神々を祀る神社のほうが圧倒的に多いと言われている。
このように出雲は並々ならぬ存在感を放っている。どうしてこうも出雲は重要なのか、これは大きな謎としか言えない。
本書は、こういった出雲の謎に果敢に挑戦し、回答を示すものである。
その方法論は、歴史的な事実を丹念にひも解いていくというもの。つまり、考古学によってこれまでにわかってきたことがらをできるだけ詳しく調べ、さらに、古典文献から取り出せるだけの情報を取り出すということを行なうものだ。その上で必要な推論を行なう。歴史学では当たり前な手法である。
ただ、それは場合によってはとても退屈に思えるアプローチかもしれない。しかし、事実を積み重ねていくと、意外な真相があぶりだされてくることがある。
実際、今回本書でつまびらかにされることがらは正にそういったものである。
即ち、我々日本人は過去1300年もの間、『古事記』と『日本書紀』の作った虚構にまんまとだまされていたことが、本書によって明らかになる。我々は見事にだまされていたのである。
具体的に言えば、邪馬台国の存在をひた隠しにしたい『古事記』と『日本書紀』の編纂者たちが、出雲を邪馬台国の代役にしたのだ。
出雲ではなく邪馬台国が日本を支配していた(より正確には、連合の盟主になった)のであり、出雲王ではなく邪馬台国の王・大国主(オホナムチ)が日本を治めていたのである。出雲王もオホナムチであり、邪馬台国王もオホナムチだが、両者はまったく異なる人物である。
これはある意味、自明の真理であり、歴史をつぶさに見れば自ずと明らかになることがらではある。とは言うものの、これまでにどれだけの人がこのことに気づいていただろうか。疑わしいものだ。
ただこれだけでは、なぜかくも広い範囲で大国主・オホナムチが祀られているのか、説明できない。
そのため本書では、「遠賀川式土器を伴った早期稲作民の増殖モデル」というものを提案する。これにより、どうしてオホナムチとスクナヒコナが広範囲の伝承に登場するのかを説明する。
さらに、出雲大社が建てられた本当の理由とその時期についても明らかにしている。出雲に神宮が建てられた背景には、出雲で起こった悲惨な出来事があった。それは大国主とはまったく関係ないことだった。
私は本書をとおして、『古事記』と『日本書紀』によって作り出された虚構を暴いていこうとしている。
ただ、それは『記紀』のすべてを捨て去るという意味では決してない。神話の中に隠された真実と虚構を峻別すべきだと言っているのである。すべてを捨てるのでもなく、すべてを鵜呑みにするのでもない。冷静な目で見ることが必要だと言っているにすぎない。
戦前、戦中と『古事記』と『日本書紀』は冒すことのできない神典と見なされていた。戦後はその反動で唯物史観一辺倒になり、日本神話は架空の話とされた。それが、今またその反動というか、日本神話を細かい議論なしに信じる人が出てきている。
今、必要なことは考古学などで明らかになった事実と神話で語られることがらを突き合わせ、丹念に検討していくことではないだろうか。