「よき詩人との出会いは、人生をより豊かなものにしてくれる」
誰か著名な人物の言葉に、そのようなものがあったような気もするが、高村光太郎は私だけでなく多くの人々にとってそういう詩人であったし、今後もそういう詩人であり続けるであろう。光太郎の命日である四月二日には、日比谷公園の松本楼に、高村家の人々や彼のゆかりの人々、研究者などが集まって、彼を偲ぶ連翹忌が催される。私も何度か出席したが、こういう場があるのはいいものである。
そういう場でなくとも、初めて出会った人に、
「私は高村光太郎の研究をしているんです」
と自己紹介すると、
「それは、いいですね。私も高村光太郎は好きなんです」
と私と同世代かそれ以上の世代の人々の多くが、笑顔で言葉を返してくれる。その時、やはり、温かい心の交流が出来た気がして嬉しくなる。
ただ、高村光太郎が戦時中に多くの愛国詩・戦争詩を書いていることを、ほとんどの人は知らずに、光太郎の詩を好きだと言っている。だから、そういう詩があることを話し、私がそれらの詩について研究していることを話すと相手は驚いて、それ以上話が進まなくなったりする。『道程』や『智恵子抄』で彼を知る人にとって、意外なことなのであろう。
また、光太郎自身も、戦後に、そういう詩を多く書いたことを自分の不明であったと認め、そして激しく悔悟した。だから、自己の非を認める真摯な光太郎のその姿に共鳴する人々もいる。
ただ、歴史的事象は、その時代ごとに、様々に解釈されるものである。一旦、善とされたことも悪となり、悪とされたことも時代の移り変わりとともに善となる。それが良いか悪いかは抜きにして、歴史というのは、ほとんどの場合、現代の常識が基準になって解釈されるものである。
この書は、私の基準によって書かれた高村光太郎論であると言っていいかも知れない。それが、独断的なのか、幾分なりとも普遍的な見解なのかは、読んで頂いてから判断してもらいたい。
そして大東亜戦争とは、日本人にとって、そしてそれに関わった多くの国の人々にとってどういう意味があったのか、今一度考える一助にして頂けたらと願うところである。
「大東亜戦争」は、日本とアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦・中華民国等連合国との間に発生した戦争に対する総合的な呼称である。一九四一年(昭和一六年)十二月に東條内閣において「大東亜戦争」という名称が閣議決定され、日本は敗戦に至るまで当時自国が行なっていた戦争に対し、この呼称を使った。
しかし、敗戦後、GHQによって「大東亜戦争」の使用が禁止され、代わりに「太平洋戦争」という呼称を用いるよう規制された。もちろん、現在、どの呼称を用いるかということについての法的強制力は持っていない。
しかしながら、敗戦後、学校で教育を受けた世代が「太平洋戦争」という呼称を用いれば分かるが「大東亜戦争」という呼称を使えばいつのことか分からないという実態は、未だに占領政策の呪縛から、日本が目覚めていないことを意味していると思われるのである。「太平洋戦争」(the Pacific War)の呼称は太平洋での覇権争いという連合国特に合衆国側の戦争理念を表したものである。「大東亜戦争」には、「東亜解放」の理念が前面に出ているし、「大東亜共栄圏」と言う時、自ずから「運命を共にし、共に栄える大きな東亜圏」という意味となる。
高村光太郎は、一詩人、一彫刻家という立場で、東亜解放を目指す祖国の聖戦を信じ、自分と国民を鼓舞したのである。したがって、この書の表題は、『大東亜戦争と高村光太郎』であり、『太平洋戦争と高村光太郎』ではない。
ただ、満州事変以来敗戦に至るまでの戦争として「十五年戦争」という呼称もあるように、その大東亜戦争自体の概念を広く捉えるならば、真珠湾攻撃から敗戦に至るまでの戦争を意味するだけでなく、日中戦争も含めるべきだと考えていいであろう。さらに、林房雄の「百年戦争」論が存在するように、「東亜解放」という理念で考えるならば、さらに長いスパンで大東亜戦争を捉えることが必要であろう。
この書では、大東亜戦争に対し明治生まれの一人の詩人がどのように関わっていったかを、いろいろな視点から広く捉えることにした。その意味で、真珠湾攻撃からの戦争を太平洋戦争と呼ぶことも完全に否定するものではない。
表題について
はじめに
凡例
第一章 高村光太郎という存在
高村光太郎の生涯
冬と孤高を友とする詩人
愛の詩人
第二章 戦争期の光太郎
崇高で澄明な詩
大東亜戦争勃発に当たって
祖国勝利への祈り
少年少女への視点
第三章 敗戦期の光太郎
祖国敗戦という現実
自己流謫という名の生活
湧き上がった戦争責任論
蒋介石についての二つの詩
第四章 戦争責任についての疑問
聖戦か侵略か
平成からの視点
光太郎の生き方の総括として
(附録)ある少女のイマージュ
終わりに
主要参考文献