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もうニオイで悩まない
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■ 制汗デオドラントブックス ■ もうニオイで悩まない 体臭・多汗と心のクリニック 五味クリニック院長 五味常明 著 1995.10.16 発行 ISBN 4-89295-064-5 C2077 四六上製・208頁・定価 1388円(本体 1262円) |
第1章 より |
あなたは、人からなにげなく「クサイ!」と言われた経験をお持ちでしょうか。 直接言葉でなくとも、話の途中で相手が急に、手に鼻をもっていって顔をしかめたり、咳き込まれたことはありませんか。 そんなとき、あなたは、自分の体から何かイヤなニオイでもしているのではないかと、内心激しく傷ついたことでしょう。 人はなぜ、人から「クサイ」と言われてひどく傷つくのでしょうか。そのときの心の痛みが、たとえば「ハゲ」とか「デブ」などの他の中傷語よりはるかに強烈なのは、なぜでしょう? それはまず第一に「クサイ」という言葉自体が私たちの心の中に、一種の「加害者意識」を生じさせるからです。 通勤電車の中で、隣の乗客が突然「クセー!」などと顔をしかめてあなたをにらみ、席を立った場面を想像してみて下さい。そのときあなたが感じる感情は、怒りやくやしさよりも、まず自分が他の乗客に迷惑をかけている≠ニいう加害者意識ではないでしょうか。 それに対して、「ハゲ」「デブ」などと言われても、人は怒りこそすれ、そのような意識を持つことはありません。頭がハゲていようと太っていようと、そのことで直接他人に迷惑をかけるわけではないからです。「クサイ」と言われたときの心の痛みが格別なのは、そのためです。あなたがマジメな人であればあるほど、その加害者意識は強まるでしょう。 つまり、「クサイ」という言葉は、ただでさえ責任感の強いあなたの内面に、不特定多数の人に迷惑をかけているという新たな「責任感」を押しつけてしまうのです。 もう一つの理由は、「ニオイ」という感覚が、目に見えない特殊なものであることによります。 「ハゲ」「デブ」「短足」「万年課長」など、人を蔑む言葉はたくさんありますが、そ うした言葉を投げつけられても、人は全人格を否定されたような気持ち≠ノはなりません。なぜなら我々は、そうした事柄――外見や役職など――については自らの全人格のほんの一部分に過ぎない≠ニ、はっきり感じることができるからです。 ところが、「クサイ」という言葉の持つ属性は、目に見えないあいまいなものであるため自分の中の一部分に過ぎない≠ニ受け流すことができないのです。「クサイ」と言われたとき、全人格を否定されたようなショックを感じるのは、ひとえにその「あいまいさ」のゆえです。 自分の体臭が人々に不快感を与えている――、そうした意識は、体臭が目に見えないだけに、マイナスの自己イメージとなって、意識の中でふくれ上がっていきます。そして、それは時に、社会生活を営む上で最も大切な、自分自身のアイデンティティーの喪失にまで至ることもあります。 「ハゲ!」「デブ!」「短足!」などの言葉を投げつけられたとき、人は「ハゲのなに が悪い!」「デブのどこが悪い!」と言い返すことができます。ところが、「クサイ!」と言われた場合「クサくてなにが悪い!」とは言い返しにくいものです。それは、「クサイ」という侮蔑語の特殊な性質のためなのです。 いま「侮蔑語」と書きましたが、私はかねがね、「クサイ」というのは現代人にとって一種の差別用語、それも究極の差別用語≠ナはないかと考えています。その一語だけで相手の全人格を否定し、しかも反論を許さない――、これほど強力な差別語がほかにあるでしょうか?
私は、体臭と多汗の治療という、いささか特殊な分野の専門医として、数万人の患者さんの手術やカウンセリングに長く従事してきました。 その長年の経験からつくづく感じるのは、体臭・多汗で悩んで来院される患者さんの「心の痛み」の大きさです。 大半の患者さんは、何ケ月も、時には何年もひとりで悩み抜き、その果てに意を決して来院します。ある日突然自分がワキガだと気づき、次の日に気軽に受診するような人はごく希です。 受診に至るまでの心のつらさは、察するにあまりあります。それはたとえば、夜も眠れないような激しい歯痛などと比べても、遜色のない深刻なものなのです。 にもかかわらず、体臭で悩んだことのない人には、その深刻さはとうてい理解できません。たとえば、体臭で悩んでいる人が最初にその悩みを打ち明けるとき――たいていは親や近しい身内に対してでしょう――、打ち明けた相手の反応は、十中八九、次のようなものです。
「気のせいじゃないの? 全然クサくないよ」 「体臭くらいでクヨクヨ悩むことないわよ」 「なにをバカなことを言ってるんだ」
このような反応は、体臭で悩んだことのない人にはしごく当然であり、「たかが体臭」でしかないのですが、意を決して自分の悩みを打ち明けた患者さんにとっては、「されど体臭……」と反論で受け答えて平然とした気持ちでいることなどできません。なぜなら、自分の体臭が原因で周囲の人から嫌われ、避けられている=c…、そんな拒絶感をすでに抱いている上に、今度は自分の悩みを誰も理解してくれない≠ニいう疎外感が加わり、反論する気力を失うほどの二重の苦しみを味わうハメになったからです。 そして、問題はこれだけにとどまりません。 二重の苦しみを味わっている患者さんの不安感をさらに増大させるのは、自分の悩みをどんな病院に行って相談したらよいかが皆目わからない、ということです。 他のほとんどの病気なら、こんなことはあり得ません。歯痛なら迷わず歯科医に行くでしょうし、喘息なら呼吸器科、不眠症なら精神科といった具合に、行くべき病院・治療施設に迷うことなどまずありません。 ところが、体臭・多汗の悩みは、何科の医師が専門なのかが非常にわかりにくいものなのです。「皮膚科ではないし、外科でもなさそうだ。さりとて汗腺科などという科はないし、心の悩みだからといって精神科に行くのも違うような気がする」……、そんなふうに思い迷って、ひとり悶々としていた人も少なくないはずです。 実際、体臭・多汗の治療を専門にしているのは、我が国で、私の医院を含めてほんの数施設に過ぎません。ましてや、手術治療だけではなく「心のケア」まで行なっている病院となると、皆無に等しいのです。 それは一つには、体臭・多汗の治療者が、非常に広い守備範囲を手がけることを要求されるためです。 一口に体臭・多汗といっても、その様態はさまざまです。明らかなワキガ体質の患者さんには当然のこと手術治療が最も効果的ですし、一方、本当はワキガではないのにそう思いこんで悩んでいる「自己臭妄想」の患者さんには、心のケアこそが重要になってきます。 このようにまったく異なる様態の患者さんに対処できなければ、体臭・多汗の正しい治療相談とはいえません。そしてそのためには、熟練した外科的手技と精神医学的知識・配慮が必要になります。つまり、体臭・多汗の治療者は、外科医であると同時にカウンセラーでもあることを要求されるのです。 しかし、そうあるべきことが、日本にあってはなかなかむずかしいことなのです。なぜなら、我が国の医学界は、多くの分野に通じた医師より、一つの分野に秀でた専門医のほうを重くみる傾向があるからです。 いきおい、外科医が精神医学を、また逆に精神科医が外科を同時に学ぶという機会は、希になります。その結果、外科医は安易に手術療法に依存し、精神科医は精神療法(投薬やカウンセリング)のみによりかかる……、という偏りに陥りやすくなるのです。 外科的アプローチに偏れば、本来手術の必要のない患者さんに無意味な手術を施してしまいかねません。一方、精神医学的アプローチに偏れば、簡単な手術で治る体臭・多汗を、いたずらに言葉のみの治療で長引かせ、患者の貴重な人生を浪費させかねません。 ですから、体臭・多汗の医療分野では、患者さんの全体像を十分把握した上で、この二つのアプローチを、時と場合によって使い分けられる医師が必要なのです。私は、そうした医師であるために、「心療外科」という新たな医療分野を築きあげようと努力してきました。 「心療外科」は私の造語です。読んで字のごとく、外科的治療(形成外科や皮膚科的 手術など)を中心に据えつつ、患者さんの内面を重視して精神医学的アプローチをする臨床医学の分野≠意味して名づけました。正しい体臭・多汗の治療は、この心療外科的アプローチによってしかありえない、そう私は考え、実践しています。
さらに、体臭・多汗にまつわるさまざまな問題は、医療の分野だけにとどまるものではありません。それは、「教育問題」としての一面も合わせ持っています。 近年、学校での「いじめ」の中で、ワキガなどの体臭がきっかけになるケースも増加しています。 いじめだけではなく、それと関連した登校拒否、さらには大人の出社拒否においても、体臭に関する悩みが引き金となるケースも見られます。体臭の悩みは、いじめの原因となると同時に、いわゆる「引きこもり」の原因、ないしは遠因ともなるのです。 このような場合の体臭・多汗の問題は、単なる医療分野の問題としてだけでは語れません。 たとえば、体臭が引き金となって登校拒否に陥った生徒が手術によってワキガ臭がなくなったとしても、そのことによって以前のように元気に学校に通えるとはかぎりません。問題はそう単純ではありません。なぜなら、子どもにとっての「体臭の悩み」は、成長過程での人格の発達の「つまづき」として表れることが多く、時には「自立過程における自己像形成の障害」にまで発展することもあるからです。ですから、たとえ体臭が原因で起こった引きこもりや登校拒否も、医療的アプローチと平行して、子どもたちの全人格がかかわる家庭教育問題として総合的にとらえる必要があります。 したがって、子どもたちの体臭の悩みについては、医師と両親、そして担当教師の三者が連携協力し、「治療教育」という側面から考えていくことが望まれます。 これら三者の連携がうまくできれば、次のようなミスを未然に防ぐことができます。 第一は、医師が安易に医療行為を行なうことによって、患者自身が持っている、自分で自分の問題や悩みを解決して自立していこうとする力を阻害してしまうこと。 次に、親が、体臭の悩みを訴える子どもの初期のサインを見逃し、「どうしてニオイくらいで悩むの?」「甘えてるわ」などと一面的にとらえてしまい、「長引く引きこもり」という体臭の悩み以上のもっと深刻な事態を招くこと。 さらに、教師が、子ども同士のニオイに関する言葉の暴力≠見逃してしまい、いじめを招いてしまうこと、などです。 これらのことは、知らず知らずのうちに起きてしまう重大なミスであり、それを避けることは子どもたちの重い引きこもり防止のためにも、とても大切なことなのです。 体臭・多汗の問題は家庭教育問題である――、そうした意味から、本書は、自ら体臭で悩んでいる人ばかりでなく、体臭が原因でいじめが起きる可能性のある学校の先生や、体臭が原因で引きこもりがちのお子さんを持つご両親にも、ぜひお読みいただきたいと思います。 本書は、体臭そのものよりも、「体臭にまつわる対人関係の悩み」に重点を置いて書いています。そうした悩みを解消したいとお考えの方は、まず本書をご一読下さい。 さらに本書は、体のニオイが一人の人間の人生にとってどのような意味があるのだろうかといった著者自身の素朴で根本的な疑問から、サブテーマとして「体臭と人間性」ということも考慮しています。ニオイは気にならないが、そういった事には関心があるという方もお読みいただければ幸いです。 …第1章より…
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目 次 |
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読者の声 |
著者紹介 |
■ 著者 五味常明(ごみつねあき)■
医学博士
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